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総合年表一覧
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- 1973年~1989年(昭和(戦後後期 その1))
- 1973年~1989年(昭和(戦後後期 その2))
- 1989年~(平成 その1)
- 1989年~(平成 その2)
1336年~1603年(南北朝、室町、安土桃山)
西暦 | 年号 | 地域 | |
---|---|---|---|
1336年頃 | 南北朝時代 | 広域 | 南北朝の分裂により、この地域の武将も南朝方と北朝方に分かれて争う。以後数年間で、井伊城(引佐)・鴨江城・千頭峰(せんとうがみね)城(三ヶ日)・三岳(みたけ)城(引佐)・大平(おいだいら)城(浜北)などで攻防がある |
1336 | 延元1 | 旧浜松 | 新田義氏、井伊氏と連絡して遠江国篠原・引馬・天竜川・袋井縄手で吉良直経・仁木義高と戦い義高天竜河原で戦死する。井伊城攻撃される |
1336 | 延元1 | 旧浜松 | 足利直義、正月の勢田合戦での天野経顕の軍忠を今川範国が見知したことを認証する(天野文書) |
1336 | 延元1 | 旧浜松 | 井伊城を美差太郎が攻撃、中条氏を討とる(瑠璃山年録残編裏書) |
1336 | 延元1 | 旧浜松 | 吉良満義、今川氏兼に三河国須美保政所を給与する(高橋文書) |
1336 | 延元1 | 旧浜松 | 蒲御厨惣検校源清保、上京して尊氏に従い今川範国これを認証する |
1336 | 延元1 | 旧浜松 | 尊氏、府八幡宮に服織庄内貴平郷(浜松市貴平町)の地頭職を寄進する(秋鹿文書) |
1337 | 延元2 | 旧浜松 | 今川範国、遠江国の御家人三和光継・松井助宗・横地治部丞・朝夷彦五郎をひきい、三方原で井伊氏と戦い、7.6井伊城へ攻撃をかける |
1337 | 延元2 | 旧浜松 | 今川範国、八幡新宮に対し社領中泉郷に殺生禁断の禁令を与える(秋鹿文書) |
1337 | 延元2 | 旧浜松 | 今川範国、遠江御家人三和光継に遠江国ニ宮庄於倶郷を与える |
1337 | 延元2 | 旧浜松 | 宗良親王、井伊介道政・高顕父子に迎えられて井伊城に入る |
1338 | 延元3 | 旧浜松 | 遠江守護今川心省、北畠顕家をむかえ討つ |
1338 | 延元3 | 旧浜松 | 宗良親王、北畠顕家と橋本付近で合して西上する |
1338 | 延元3 | 旧浜松 | 宗良親王、遠江白羽港に上陸し井伊城に入る |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 後醍醐天皇、妙音堂領浜松荘を左衛門督に与える |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 今川心省、井伊城を攻撃する |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 高師泰・同師冬、大平城と鴨江城を攻め7.26鴨江城を攻略する |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 蒲御厨惣検校源清保、北朝方に参加、高師泰これを認証する(蒲神明宮文書) |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 千頭峯城を攻略する。この年、井伊の野臥が大福寺に乱妨する |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 遠江守護仁木義長、遠江国初倉庄内八幡宮別当職の遵行を守護代に命令する |
1339 | 延元4 | 旧浜松 | 大墓御厨より八丈絹二疋を納入する |
1339 | 延元4 | 引佐 | 宗良親王が三岳城(現:北区引佐町)に入る |
1340 | 興国1 | 旧浜松 | 高師泰・仁木義長、三獄城を攻略する |
1340 | 興国1 | 旧浜松 | 大平城を遠江守護仁木義長が攻略する |
1340 | 旧浜松 | 義長、大平城の託磨之親の軍功に証判する | |
1341 | 興国2 | 旧浜松 | 高師泰、蒲御厨惣検校職を保証する |
1341 | 興国2 | 旧浜松 | 浜松庄鴨江寺に検断使の乱入を停止する(鴨江寺文書) |
1342 | 興国3 | 旧浜松 | 高師泰、遠江蒲御厨神明宮の造営を沙汰をする |
1343 | 興国4 | 旧浜松 | 千葉貞胤が遠江守護か |
1344 | 興国5 | 旧浜松 | 高師泰、遠江蒲御厨に検校職内多母木六郎入道円心の跡屋敷の田畠を寄進する(蒲神明宮文書) |
1345 | 興国6 | 旧浜松 | 氷雨が降る(瑠璃山年録残編裏書) |
1347 | 正平2 | 旧浜松 | 高師泰、蒲御厨検校職内の田畑を東大寺が押領するを停め、源清保に与える(蒲神明宮文書) |
1349 | 正平4 | 旧浜松 | 高師泰、蒲御厨にたいし年貢の進済をうながす(蒲神明宮文書) |
1349 | 正平4 | 旧浜松 | 遠江守護今川心省、尾奈郷を料所とし松井助宗を代官に任命する |
1350 | 正平5 | 旧浜松 | 足利直冬、浜松荘などを詫磨宗直に与える |
1350 | 正平5 | 旧浜松 | 蒲御厨惣検校源清保、北朝の勝利を祈祷する(蒲神明宮文書) |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 斎藤杜利泰の妻尼性戒、所領村櫛荘地頭職の3分の2を京都天竜に寄進する。このころ村櫛荘の領家職は徳大寺家である。3分の1は斎藤氏の所領となる |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 尊氏の将小笠原政長、直義の党吉良満貞の代官富永某と引間宿で戦う |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 小笠原政長ら、直義の党上上杉憲顕と左与中山で戦う。11.26尊氏、縣川に駐軍する |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 足利尊氏関東に発向、犬居の天野周防守を招く(天野文書) |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 仁木義長が遠江守護に任ぜられている(野田文書) |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 後村上天皇、光厳上皇に遠江飯田荘を保証する |
1351 | 正平6 | 旧浜松 | 横地為長、遠江国大峯平山犬居村の地頭職を天野氏より横領する(天野文書) |
1352 | 正平7 | 旧浜松 | 今川範氏、遠江守護職に補任される(今川家古文章写) |
1352 | 正平7 | 旧浜松 | 三河と遠江の南朝軍、伊勢より近江に入る |
1352 | 正平7 | 旧浜松 | 今川範国、駿河久能寺に遠江国の南朝軍退治を祈る(旧久能寺文書) |
1352 | 正平7 | 旧浜松 | 浜名左近大夫清政、大福寺に遠江国の南朝軍の平定を祈る(大福寺文書) |
1352 | 正平7 | 旧浜松 | 今川心省、遠江守護となる |
1353 | 正平8文和2 | 旧浜松 | 足利尊氏、犬居天野景顕が南朝方の上総親王を捕えたとの今川範国の注進により感状を与える |
1353 | 正平8 | 旧浜松 | 浜名清政、金剛寺(三ヶ日町)を建立し菩提所とする(金剛寺由緒覚書) |
1354 | 正平9 | 旧浜松 | 仁木義良、浜松荘内鴨江寺領を保証する |
1354 | 正平9 | 旧浜松 | 後光厳天皇、遠江国衙領の内、二俣・井伊谷などを熊野新宮の造営料所として寄進する |
1354 | 文和3 | 旧浜松 | 龍雲寺(入野)開創 |
1355 | 正平10 | 旧浜松 | 今川了俊、細川清氏に従い東寺合戦に参加する清氏が浜松荘・笠原荘を領有したのを不満とし遠江国へひきあげる |
1356 | 正平11 | 旧浜松 | 塩風吹く(瑠璃山年録残編裏書) |
1357 | 正平12 | 旧浜松 | 洞院実夏に都田御厨の領家職を給与する |
1358 | 正平13 | 旧浜松 | 浜名三河守、義詮将軍宣下参内に供奉する(室篋院殿将軍宣下記) |
1358 | 正平13 | 旧浜松 | 秋、寂室元光、馬郡の如意寺に伯る |
1359 | 正平14 | 旧浜松 | 今川貞世、駿遠の兵をひきいて出陣する |
1360 | 正平15 | 旧浜松 | 2.26地震(瑠璃山年録残編裏書) |
1361 | 正平16 | 旧浜松 | 今川貞世、三河・遠江の兵をひきいて山崎に出陣、南軍と戦う |
1362 | 正平17 | 旧浜松 | 三河・遠江の兵、山名時氏討伐に参加する。このとき「遠江守護今川伊予守」が出陣する |
1362 | 正平17 | 旧浜松 | 細川清氏没す。浜松荘の代官職を、吉良満貞に給与する |
1363 | 正平18 | 旧浜松 | 将軍義詮、(閏)1.15の三河竹島合戦における天野直景の軍功を、吉良満貞の申立により賞する(天野文書) |
1364 | 正平19 | 旧浜松 | 大炊寮浅羽荘内岡郷の年貢3貫文を割符で送る |
1364 | 正平19 | 旧浜松 | 遠江国司前伊予守源朝臣直氏、府中蓮光寺に梵鐘を寄進する |
1364 | 正平19 | 旧浜松 | 今川範国、東寺雑掌の訴により、柴田代人少輔房が同寺領村櫛荘の本家米を抑留するのをとどめ半済分を同時に交付する |
1365 | 正平20 | 旧浜松 | 大江末光、只木神明社に掛仏をかかげる(三ヶ日町只木神明宮蔵) |
1365 | 正平20 | 旧浜松 | 今川範氏没す |
1365 | 正平20 | 旧浜松 | 南朝、源光遠を遠江国司にする |
1366 | 正平21 | 旧浜松 | 吉良満貞、浜松荘鴨江寺の条規を定め、報恩寺以下の寺領を保証する(鴨江寺文書) |
1367 | 貞治6 | 旧浜松 | 西伝寺中興 |
1368 | 正平23 | 旧浜松 | 京都東寺領村櫛荘で半済の新命が実施される |
1370 | 建徳1 | 旧浜松 | 吉良満貞、浜松荘内嶋郷4分の1の地頭職を今川氏兼に給与する |
1370 | 建徳1 | 旧浜松 | 北白河宮、京都加茂社の片岡社に対し浜松荘岡部郷を保証する |
1371 | 建徳2 | 旧浜松 | 遠江国村櫛荘乙君長福禅寺において大般若波羅蜜多経を写す。応安5も行われる |
1371 | 建徳2 | 旧浜松 | 今川了俊、九州探題として赴任する。遠江の横地・奥山氏ら、これに従う |
1371 | 建徳2 | 旧浜松 | 無文元選、奥山六郎次郎朝藤に迎えられ奥山に入り、方広寺をひらく |
1371 | 建徳2 | 引佐 | 三岳城(現:北区引佐町)が足利軍に攻め落とされる |
1374 | 文中3 | 旧浜松 | 都田御厨の領家洞院公定、その収入銭の減少を歎く |
1375 | 天授1 | 旧浜松 | 浜名左京亮、将軍義満の石清水八幡宮参詣に近習12人の1人として供奉する(花営三代記) |
1375 | 天授1 | 旧浜松 | 天野景隆、近江守に任ぜられる(天野文書) |
1377 | 天授3 | 旧浜松 | 都田御厨の名主と神宮とのあいだに紛争があり領家洞院公定これが解決をはかる |
1378 | 天授4 | 旧浜松 | 遠江守護今川了俊、守護代長瀬尾張権守に命じ蒲御厨神明社を造営させる |
1378 | 天授4 | 旧浜松 | 幕府、遠江守護に命じ、都田御厨を洞院公定の雑掌にわたさせる |
1379 | 天授5 | 旧浜松 | 今川心省、遠江守護に再任する |
1380 | 天授6 | 旧浜松 | 遠江守護今川心省、横地長連に犬居村の地頭職を認めたため横地氏と犬居の天野氏に紛争がおきる |
1381 | 弘和1 | 旧浜松 | 浜名詮政、将軍義満に供奉する(花営三代記) |
1382 | 弘和2 | 旧浜松 | 天野景隆、下野守に任ぜられる(天野文書) |
1382 | 弘和2 | 旧浜松 | 宗良親王、井伊城に入るという |
1383 | 弘和3 | 旧浜松 | 日乗、法華宗に改宗し鷲津本興時をひらく |
1384 | 元中1 | 旧浜松 | 今川心省没す |
1384 | 元中1 | 旧浜松 | 奥山朝藤、方広寺に寺領を寄進する(方広寺史) |
1384 | 元中1 | 旧浜松 | 幕府、遠江国都田御厨の半分を洞院大納言家雑掌に渡付するよう、遠江守護今川了俊に指示する |
1385 | 元中2 | 旧浜松 | 宗良親王、井伊城に薨去するという |
1385 | 元中2 | 旧浜松 | 浜松庄鴨江寺の所務の条規を定め、報恩寺以下の寺領を保証する(鴨江寺文書) |
1385 | 元中2 | 旧浜松 | 大風が吹く。この年、浜名庄に住む阿遠、遠江国笠原庄村岡郷興恩寺で大般若波羅蜜多経を書写する(蔵泉寺文書) |
1386 | 元中3 | 旧浜松 | 日什、吉美郷に妙立寺をひらく。佐原氏の外護によるという |
1386 | 元中3 | 旧浜松 | 幕府、天野景隆に遠江大峯・平山・犬居村の地頭職を保証し、横地長連との紛争を解決する(天野文書) |
1388 | 元中5 | 旧浜松 | 遠江守護今川了俊、幕命により遠江国山香荘内大結・福沢両村の地頭職を天野寛誉息女代定職に渡付する |
1388 | 元中5 | 旧浜松 | 遠江守護は今川仲秋である |
1388 | 元中5 | 旧浜松 | 左兵衛佐、鴨江寺領について紛争が生じたが、もとのように鴨江寺に返付させる(鴨江寺文書) |
1388 | 元中5 | 旧浜松 | 東寺領村櫛荘、年貢を割符で送る |
1390 | 元中7 | 旧浜松 | 無文元選没す(方広寺史) |
1390 | 元中7 | 旧浜松 | 山崎清懐、東寺領村櫛荘領家方本家米代官職を守護による半済が本復のさいは年貢代銭を10貫文納入を約し、毎年5貫文で請け負う |
1391 | 元中8 | 浜北 | 洞巌、雲岩寺をひらく |
1391 | 元中8 | 旧浜松 | 将軍義満、蒲御厨を奈良東大寺に塔婆料所として寄進する |
1391 | 元中8 | 旧浜松 | 今川仲秋、鎌田御厨の半済分を松井助宗に与える |
1391 | 元中8 | 旧浜松 | 遠江守護今川仲秋、山名氏清討伐に出陣する |
1392 | 元中9 | 旧浜松 | 南北朝合一 |
1395 | 応永2 | 旧浜松 | 義満薙髪のさい今川仲秋も出家する |
1395 | 応永2 | 旧浜松 | 九州探題今川了俊、幕府から召還される |
1395 | 応永2 | 旧浜松 | 今川仲秋、駿河半国の守護職を与えられ遠江に帰る |
1395 | 応永2 | 旧浜松 | 瑞雲寺(佐藤町)開創 |
1397 | 応永4 | 旧浜松 | 大福寺御影堂を建立する(瑠璃山年録残編裏書) |
1399 | 応永6 | 旧浜松 | 以後、今川泰範遠江守護職となる |
1399 | 応永6 | 旧浜松 | 遠江守護今川仲秋、遠江大池郷北方の地頭職を道場の造営料として京都金蓮寺に寄進する |
1400 | 応永7 | 旧浜松 | 今川仲秋、駿河半国の守護職を与えられ遠江に帰る泰範、駿河(了俊の半国もあわせて)・遠江の守護をかねる。両国とも国務(国守)と守護職をかねる |
1401 | 応永8 | 旧浜松 | 恕仲天誾、遠江飯田の城主山内道美氏のたのみで、崇信山を寄進する(崇信寺文書) |
1401 | 応永8 | 旧浜松 | 遠江国目代に盛高がいる |
1402 | 応永9 | 旧浜松 | 今川了俊『難太平記』を著す(難太平記) |
1403 | 応永10 | 旧浜松 | 元応、応賀寺(新居町)に仏像を寄進する。この像は舘山寺(浜松市)旧蔵のものという(応賀寺仏像胎内銘) |
1403 | 応永10 | 旧浜松 | 洞雲寺(神ケ谷町)開創 |
1405 | 応永12 | 旧浜松 | 尾張守護斯波義重、遠江守護となる |
1406 | 応永13 | 旧浜松 | 東海道一帯に大風高潮があり、浜名利正の宇志堂崎の居館殿が流出する(利正院縁起) |
1409 | 応永16 | 旧浜松 | 足利満兼、、天野景政に遠江兵粮所として笠原庄内つ土方下郷山香庄西手村内瀬尻大嶺を預ける(天野文書) |
1410 | 応永17 | 旧浜松 | 将軍足利義持、東大寺大勧進惣深に同寺塔婆料所の蒲御厨地頭職を返付する |
1411 | 応永18 | 旧浜松 | 恕中天誾、大洞院をひらく |
1412 | 応永19 | 旧浜松 | 今川了俊、仲秋のために『今川了俊同名秋仲へ制詞条々』22条を作り送るという(今川記) |
1412 | 応永19 | 旧浜松 | 天野慶景の所領遠江山香荘の大結・福沢両村地頭職を、奥山某が押領した不法を排除するよう、斯波義重宛の室町将軍御教書が発給される |
1412 | 応永19 | 旧浜松 | 今川了俊、この年87歳から応永25年93歳までのあいだに、遠江堀越において死亡したという |
1419 | 応永26 | 旧浜松 | 斯波義重のあとをうけ、義淳遠江守護となる |
1422 | 応永29 | 旧浜松 | 浜名持政、将軍義持御台御方執筆となる(花営三代記) |
1422 | 応永29 | 旧浜松 | 蒲御厨内に新開(新貝町)が開拓されている |
1423 | 応永30 | 旧浜松 | 東大寺の衆徒、蒲御厨において不法行為があった、と評定する |
1424 | 応永31 | 旧浜松 | 浜名持政、連歌の書を書写する(梵灯庵返答書奥書) |
1426 | 応永33 | 旧浜松 | 藤原朝臣直貞、大檀那として福満寺本尊薬師像を造立する(薬師像蓮台墨書) |
1427 | 応永34 | 旧浜松 | 吉良義尚、授竜庵(寿量院)に畠一段を寄進する |
1428 | 正長1 | 旧浜松 | 華蔵義曇が普済寺を建てる |
1428 | 正長1 | 旧浜松 | 随縁寺開創(寺島町→広沢) |
1428 | 正長1 | 旧浜松 | 西来院(広沢) |
1432 | 永享4 | 旧浜松 | 室町将軍足利義教、鎌倉御所持氏を威圧するため、富士山見物にたくし駿河に下向、橋本・舞阪・引馬・府中を過ぎる |
1433 | 永享5 | 旧浜松 | 斯波義郷、遠江守護となる |
1434 | 永享6 | 旧浜松 | 幕府、尾張・遠江両国に段銭をかけ、越前の気比神社造営に寄進する |
1436 | 永享8 | 旧浜松 | 斯波義健、遠江守護となる |
1437 | 永享9 | 旧浜松 | 山名郡鎌田御厨阿弥陀堂の梵鐘を鋳る |
1438 | 永享10 | 旧浜松 | 鎌倉御所持氏征伐に、遠江から横地・勝間田らが出征する |
1438 | 永享10 | 旧浜松 | 浜名備中入道満政・浜名持政大番役に勤仕する(永享以来御番帳) |
1439 | 永享11 | 旧浜松 | 聖学導之、豊田郡高薗新善光寺に梵鐘を寄進する(信濃国法全寺蔵梵鐘銘) |
1440 | 永享12 | 旧浜松 | 京都東寺領の遠江国細谷郷の代官に行商人の道伊がなるが翌年年貢未納のため天野氏がかわる |
1441 | 嘉吉1 | 旧浜松 | 斯波義健、駿河守護今川範忠が遠江の地を侵略したのを詰問する |
1441 | 嘉吉1 | 旧浜松 | 華蔵義曇、普済寺において慶受に出家作法書を伝授する |
1442 | 嘉吉2 | 旧浜松 | 金剛寺焼失、そののち持政の跡目浜名隼人正政義がこれを再建するという(浜名古城記・浜名氏系図・利正院縁起) |
1444 | 文安1 | 旧浜松 | 応島久重、遠江国蒲御厨代官職請文を東大寺に呈出する |
1445 | 文安2 | 旧浜松 | 万歳院を引間城近くに開かれる(後に下池川天林寺となる) |
1447 | 文安4 | 旧浜松 | 未刻大風あり、摩訶耶寺堂宇大破する(摩訶耶寺文書・仁王門棟札) |
1449 | 文安6 | 旧浜松 | 浜名備中入道持政、大番役に勤仕する(文安年中御番帳) |
1451 | 宝徳3 | 旧浜松 | 浜名備中守政義大檀越となり、摩訶耶寺仁王門営繕、3.26棟上、4成就する(摩訶耶寺文書・仁王門棟札写) |
1451 | 宝徳3 | 旧浜松 | 遠江守護代甲斐常治、天竜・橋本両渡の関所に対し、尊行状を発給する |
1452 | 享徳1 | 旧浜松 | 遠江守護斯波義健没し、一族義敏がうけつぐ |
1452 | 享徳1 | 旧浜松 | 蒲御厨の公文・百姓、蒲の代官応島氏が伊勢上分米の下地の知行権を横領したことを訴える |
1453 | 享徳2 | 旧浜松 | 幕府、東大寺雑掌に対し、他出逃散した聖護院門跡領河匂荘百姓らの住所氏名を報告せよ、と蒲御厨の地下人に指令する |
1454 | 享徳3 | 旧浜松 | 今川義忠、笠原庄一宮庄神領の諸公事を免除する(中山文書) |
1454 | 享徳3 | 旧浜松 | 飯田竜泉寺建立されるという |
1455 | 康正1 | 旧浜松 | 摩訶耶寺十王堂の鰐口をつくる。勧進正範。五郎左近これを奉納する(蒲郡町存寺所蔵鰐口銘) |
1455 | 康正1 | 旧浜松 | この年早魃、6鎌倉御所の足利成氏征伐のため幕府蒲御厨に対し、野状・兵粮・関東夫を徴発する |
1455 | 康正1 | 旧浜松 | 新豊院(砂山)開創 |
1456 | 康正2 | 旧浜松 | 蒲西方の蒲検校をはじめ、蒜田・河井・西須賀などの名手を中心とし、引馬の農民と連合して引馬の土倉を襲撃し焼き払う |
1456 | 康正2 | 旧浜松 | 蒲御厨の公文百姓ら徳政一揆、引馬土倉焼捨のことにつき領主の東大寺に注進する(東大寺文書) |
1457 | 康正3 | 旧浜松 | この年東大寺領の遠江蒲御厨では、早稲・中稲だけが栽培される |
1457 | 康正3 | 旧浜松 | このころ引間宿が栄えている |
1457 | 康正3 | 旧浜松 | 蒲御厨の東西の公文(管理人)・百姓(名主)、年貢を請け負う |
1458 | 長禄2 | 旧浜松 | 浜名神戸、御綿以下の伊勢神税を備進する(官司公文抄) |
1461 | 寛正2 | 旧浜松 | 浜松荘領家吉良氏代官引馬領主大河内備中守、大河内兵庫助真家・磯島藤衛門俊家を蒲御厨代官職とする |
1462 | 寛正3 | 旧浜松 | 堀江内山佐田城主堀江下野守、母のために慶受を開山として法憧院(三ヶ日町大崎)を開く(法憧院縁起) |
1462 | 寛正3 | 旧浜松 | このころ遠江守護斯波氏、伊勢大神宮領遠江浜名御厨を半済にし、臨時負担をかける |
1465 | 寛正6 | 旧浜松 | 今川義忠、横地・勝間田らを従えて府中を攻め、11ついに狩野宮内少輔を殺す |
1465 | 寛正6 | 旧浜松 | 別給(市内飯田町)の公文、東方代官宛に「別給村麦米大豆定役算用注進状」を呈出する |
1465 | 寛正6 | 旧浜松 | 代官大河内備中入道道光から、5年分の蒲御厨西方の年貢175貫14文が東大寺油倉に送られる |
1466 | 文正1 | 旧浜松 | 斯波義敏、越前・尾張・遠江3か国の守護となる |
1466 | 文正1 | 旧浜松 | 命天慶受を開山とし、佐田城主堀江下野守宿芦寺を建立する |
1467 | 応仁1 | 旧浜松 | 応仁の乱はじまる |
1467 | 応仁1 | 引佐 | 金指(現:北区引佐町)に実相寺が開かれる |
1473 | 文明5 | 旧浜松 | 歌僧正広、駿河に下り2か月ほど滞在、帰途遠江の各所を訪れる(正広日記) |
1475 | 文明7 | 旧浜松 | 日暹、本興寺の置文を定める |
1476 | 文明8 | 旧浜松 | 遠江の横地四郎兵衛・勝間田修理亮、西軍の守護斯波義廉に味方して今川義田忠に反抗、義忠は横地・勝間田の城を囲み、両人の首級をえる |
1476 | 文明8 | 旧浜松 | 横地・勝間田両氏を滅した今川義忠、帰途塩貝坂で敵の残党に夜襲されて戦死する |
1476 | 文明8 | 旧浜松 | 幕府、河曲庄頭陀寺の土倉についての本郷の僧の訴えを裁決する |
1479 | 文明11 | 旧浜松 | 慶受、出家作法書を大崎の法憧院において天受和尚に命じ、慶讃に授ける(宿芦寺文書) |
1480 | 文明12 | 旧浜松 | 慶受、永平寺の請で登山し21世住持となり、入寺開堂する |
1480 | 文明12 | 広域 | 臨江寺開創 |
1481 | 文明13 | 旧浜松 | 永平寺21世慶受、出家作法書を自書して慶讃に付授する(宿芦寺文書) |
1482 | 文明14 | 旧浜松 | 浜名神戸惣公文、浜名神戸検畑半済の旨を伊勢社家神戸司代官宛に注進する(浜名神戸検番日記) |
1485 | 文明17 | 旧浜松 | 禅僧万里集九、関東下向の途次黍里(浜名郡湖西町吉美)から浜名湖をわたり、三方原を歩き、15日引馬に泊る(梅花無尽蔵) |
1487 | 長享1 | 旧浜松 | 浜名三郎政明と日比沢の住人後藤九郎某、将軍義尚に従い近江の佐々木高頼征伐に五番衆として参加する(常徳院殿州御動座着到状) |
1492 | 明応1 | 旧浜松 | 繁田宗治、相模鎌倉禅興寺明月院塔主玉隠英璵に住居の斎銘をつけてもらう |
1494 | 明応3 | 旧浜松 | 伊勢宗瑞、縣川を奪取する目的で、数千の兵を率い遠江に侵入する |
1494 | 明応3 | 旧浜松 | このころ河匂荘に東漸寺がある |
1498 | 明応7 | 旧浜松 | 遠江の海水あふれ、荒井崎を破壊し、浜名湖と通じ今切を生ずる |
1498 | 明応7 | 旧浜松 | この年災害多く、駿遠三の一帯にわたり大氷雹・大暴風雨・大津波がある(松堂禅師語録) |
1499 | 明応8 | 旧浜松 | 今川氏親、遠江府八幡宮領羽鳥庄貴平郷地頭職を神主に還付する(秋鹿文書) |
1499 | 明応8 | 旧浜松 | 首を詠ずる(富士歴覧記) |
1499 | 明応8 | 旧浜松 | 飛鳥井雅康、富士山見物のため下向。鷲津から宇布見・引馬にでて、帰途引馬から宇布見で乗船、吉見の妙立寺で |
1501 | 文亀1 | 旧浜松 | 社山の城主二俣昌長、斯波氏の武士や遠江の牢人と結び今川氏に反抗する |
1501 | 文亀1 | 旧浜松 | 堀江内山佐田城堀江三郎左衛門尉、金剛寺領として土地を寄進する(大福寺文書古按写) |
1504 | 永正1 | 旧浜松 | 今川氏の食客伊勢宗瑞、村櫛荘玉子郷に対し、年貢などを領家氏に納めよと指令する |
1504 | 永正1 | 旧浜松 | 今川氏親・伊勢宗瑞、扇谷上杉朝良のため遠州勢を従え武蔵国に出陣、山内上杉の顕定を破る |
1504 | 永正1 | 旧浜松 | 氏親駿河に帰る |
1505 | 永正2 | 旧浜松 | 遠州府中蓮光寺の梵鐘(貞治3年1364鋳造)、浜松庄引間普済寺に到来する |
1506 | 永正3 | 旧浜松 | 今川氏親、遠江山口12郷のうちで口入米を御師亀田太郎大夫に保証する |
1506 | 永正3 | 旧浜松 | 今川氏親、本興寺に禁制をくだす(本興寺文書) |
1506 | 永正3 | 旧浜松 | 浜名政明、今川氏親の将伊勢長氏に属し、松平長親の軍と三州岩津矢作川河畔に戦う(官本三河記・三河物語) |
1508 | 永正5 | 旧浜松 | 今川氏親、遠江守護となり、将軍足利義尹に礼銭一万疋を進上する |
1508 | 永正5 | 旧浜松 | 今川氏親、将軍足利義尹に馬を進上しようとしたが、遠江は戦乱のため信濃・三河をへて上洛させる |
1510 | 永正7 | 旧浜松 | 遠江に海嘯おこり、浜名湖今切まったく崩壊する |
1510 | 永正7 | 旧浜松 | 岡本新三郎信久、大福寺へ岡本郷内の畠を寄進する(大福寺文書) |
1511 | 永正9 | 旧浜松 | 大河内備中守貞網、信濃・三河・尾張の兵を味方にし義達の援助で引馬城で拳兵し、堀江城を攻撃したが失敗、氏親の将朝比奈泰煕これを攻める |
1513 | 永正10 | 旧浜松 | 大河内貞網、泰煕に降伏、生命を助けられる、このころ黒山(堀江)城の村櫛堀江下野守も泰煕に攻められ降伏する |
1513 | 永正10 | 旧浜松 | 氏親の将朝比奈泰煕没す |
1514 | 永正11 | 旧浜松 | 大河内貞網挙兵、井伊谷井伊次郎を攻めるため今川氏親飯尾賢連とともに笠井荘楞厳寺に進み、諸軍大菩薩山に陣する |
1514 | 永正11 | 旧浜松 | 斯波義達、尾張の兵を率い、大河内貞網に応じ、井伊氏とともに引佐郡三獄城に篭城、朝比奈泰以これを攻略する |
1516 | 永正13 | 旧浜松 | 今川氏親、鴨江寺に禁制を掲げる(鴨江寺文書) |
1517 | 永正14 | 旧浜松 | 引馬城落城、大河内貞網・巨海新左衛門は自殺、斯波義達は今川氏親に降伏、普済寺において出家し、尾張に送還され、遠州はまったく今川氏の分国となる |
1517 | 永正14 | 旧浜松 | 井伊千代寿、峯田郷1町6段の年貢3貫文を熊野那智神社に寄進する |
1517 | 永正14 | 引佐 | 今川氏親が三岳城の井伊氏攻撃 |
1519 | 永正16 | 旧浜松 | 安方源左衛門尉信久、大福寺へ上田之内の田地を寄進する(大福寺文書) |
1519 | 永正16 | 旧浜松 | 今川氏親大山寺の寺領を安堵する |
1521 | 大永1 | 旧浜松 | 龍秀院(有玉北)開創 |
1522 | 大永2 | 旧浜松 | 浜名政明、連歌師宗長の訪問を受け、佐久城中に連歌の会を催す(宗長手配) |
1522 | 大永2 | 旧浜松 | 今川氏親、本興寺に禁制をくだす(本興寺文書) |
1525 | 大永5 | 旧浜松 | 今川氏親、頭陀寺千手院に対し遠江国中での加賀国の白山達職を保証し、ニ諦坊には浜松荘のうち川西の分の先達とする |
1525 | 大永5 | 旧浜松 | 宇津山城主長池親能、本興寺に門前海上における殺生禁断の禁制をくだす(本興寺文書) |
1525 | 大永5 | 旧浜松 | 瀬名氏貞、蒲東方之内稲荷山竜泉寺領を、大永4年の検地によって寄進する |
1526 | 大永6 | 浜北 | 今川氏朱印状(美薗・万石) |
1526 | 大永6 | 旧浜松 | 連歌師宗長、駿河から京都に帰る途中浜松荘の飯尾善四郎の亭で連歌を賦す(宗長手記) |
1526 | 大永6 | 旧浜松 | 藤原朝臣直隆、伊那左郡井伊保八幡宮の梵鐘を鋳る(渭伊神社旧蔵銘写・静岡県史料) |
1526 | 大永6 | 旧浜松 | 今川家、美薗万石の六郎左衛門の屋敷を砦としたため年貢や棟別を免除する(沢木文書) |
1526 | 大永6 | 広域 | 今川氏親「仮名目録」定める |
1527 | 大永7 | 旧浜松 | 今川氏貞、清宗をして蒲惣検校職を安堵する(蒲神明宮文書) |
1527 | 大永7 | 旧浜松 | 連歌師宗長、鵜津山城に泊る(宗長手記) |
1528 | 大永8 | 旧浜松 | 広綱、河匂庄平間内の地を頭陀寺領として奇遇する(頭陀寺文書) |
1528 | 大永8 | 旧浜松 | 藤原朝臣直隆、井伊郷八幡宮に鰐口を縣ける(正泉寺蔵鰐口銘) |
1529 | 享禄2 | 旧浜松 | 二俣昌長、瀬尻善左衛門ならびに孫二郎の忠節を褒して知行を与える(遠江国風土記伝) |
1530 | 享禄3 | 旧浜松 | 朝比奈泰能、頭陀寺をもとのように遠江白山先達職とする。河西別はニ諦坊を先達とする(頭陀寺文書) |
1530 | 享禄3 | 旧浜松 | 井伊直久、祝田大明神に田1段を寄進する(蜂前神社文書) |
1530 | 享禄3 | 旧浜松 | 寿桂尼(氏親後室)、二俣郷内阿蔵玖廷寺領を安堵する(玖廷寺文書) |
1532 | 享禄5 | 旧浜松 | 宇津山城主朝比奈氏泰、本興寺領を安堵する(本興寺文書) |
1533 | 天文2 | 旧浜松 | 今川氏輝、二俣郷内阿蔵玖廷寺領を安堵する(玖廷寺文書) |
1533 | 天文2 | 旧浜松 | 仁和寺真光寺院尊海、駿河清見が関に下向の途次浜名の橋で1首を詠じ、引間に泊る(あずまの道の記) |
1533 | 天文2 | 旧浜松 | 今川氏輝、村櫛荘大沢氏に「内海小船役」を安堵する |
1533 | 天文2 | 旧浜松 | 今川氏輝、村櫛在城の大沢氏に浜名湖の運輸税を免除する |
1535 | 天文4 | 旧浜松 | 今川氏輝、村櫛荘領家方と尾奈郷の棟別銭を免除し、警戒をきびしくする |
1537 | 天文6 | 旧浜松 | 見付城の堀越氏、今川義元に攻められ陥落する |
1539 | 天文8 | 旧浜松 | 今川義元、頭陀寺の条規を定める(頭陀寺文書) |
1539 | 天文8 | 旧浜松 | 今川義元、摩訶耶寺に寺領を安堵し諸規を定める(摩訶耶寺文書) |
1539 | 天文8 | 旧浜松 | 遠江に「悪風」があり、大福寺の仁王像が破壊する |
1540 | 天文9 | 旧浜松 | 今川義元、妙光寺の恒武郷内の寺領等を安堵する(妙光寺文書) |
1540 | 天文9 | 旧浜松 | 今川義元、蒲惣検校職を安堵する(蒲神明宮文書) |
1541 | 天文10 | 旧浜松 | 引馬城主飯尾乗連、授竜庵(寿量院)領を検地した出目1町9段を新しく寄進する |
1541 | 天文10 | 旧浜松 | 今川義元、見付府の町人百姓に対し年貢150貫文を請け負わせ、自治をゆるす |
1541 | 天文10 | 旧浜松 | 今川義元、橋羽の妙恩寺に寺領を安堵する(妙恩寺文書) |
1543 | 天文12 | 旧浜松 | 大福寺仁王尊像修理を終る(大福寺仁王像胎内銘) |
1544 | 天文13 | 旧浜松 | 今川義元、大沢治部少輔に対し検地の増分を与え、佐田城の守備を命令する |
1544 | 天文13 | 旧浜松 | 宗牧、井伊谷に井伊次郎、引間に飯尾豊前守をたずねる |
1545 | 天文14 | 旧浜松 | 今川義元、頭陀寺に禁制を掲げる(頭陀寺文書) |
1546 | 天文15 | 旧浜松 | 井伊直盛、祝田の百姓・脇者・下人たちが地主の意志にそむき、武士の被官となることを禁止する |
1547 | 天文16 | 旧浜松 | 今川義元、万石の六郷左衛門屋敷の年貢を免除する(沢木文書) |
1548 | 天文17 | 旧浜松 | 今川義元、本田縫殿助に「溱役」・「渡津の船役」を給与する |
1548 | 天文17 | 旧浜松 | 今川義元、遠江国に対し検地をおこなう。以後20年・22年・弘治2年・3年と実施する |
1551 | 天文20 | 旧浜松 | 木下藤吉郎(秀吉)松下加兵衛に仕える |
1551 | 天文20 | 旧浜松 | 今川義元、駿河大宮浅間神社の慶学坊に、駿河・遠江の山伏を統制させる |
1552 | 天文21 | 旧浜松 | 鵜殿長持、飯尾乗連らの外護を得て本興寺仏殿(重文)の修復をおこなう(本興寺仏殿修復棟札写) |
1556 | 弘治2 | 旧浜松 | 中嶋村六本松の諏訪社を、浜松に移す(諏訪大明神) |
1556 | 弘治2 | 旧浜松 | 山科言継、駿河府中に下向のとき、白須賀・今切渡・舞坂で1宿、引馬にでて引馬川・天竜川を渡り、帰途見付・池田・天竜川をすぎて引馬につく(言継卿記) |
1556 | 弘治2 | 旧浜松 | 今川義元、在天和尚が曹源院(宗源院)を建立した労功に対し、来迎寺領を寄進する |
1558 | 永禄1 | 旧浜松 | 奈良興福寺別実暁、京都から鎌倉へ下向の途次、橋本・池田・国府を通る(実暁記) |
1559 | 永禄2 | 旧浜松 | 今川氏、駿河・遠江・三河の宿駅に対し、伝馬一疋の用意を命令する |
1560 | 永禄3 | 旧浜松 | 今川氏、皇大神宮御師で今川氏の祈祷師足代玄蕃に対し分国の駿遠三国内の檀那を巡回するための伝馬手形を与える |
1560 | 永禄3 | 旧浜松 | 今川氏真、遠江の本間五郎兵衛尉に「紺掻役」を安堵させる |
1561 | 永禄4 | 旧浜松 | 今川氏真、川匂荘大柳村の与三郎が年貢の未進分を弁済したので明主職を給与する |
1562 | 永禄5 | 旧浜松 | 今川氏、今切に繋ぐ船2艘に印判・過書を与え、運送の際は村櫛・新居に寄航する要はなく、湖上の運航を中止してもこの2艘は特別の旨、指令する |
1562 | 永禄5 | 旧浜松 | 井伊直親、掛川城主朝比奈泰能に殺される |
1562 | 永祿5 | 旧浜松 | 今川氏真、引間城に井伊尾豊前守、連龍を攻める |
1563 | 永禄6 | 旧浜松 | 今川氏真、松下筑後入道に浜松荘因幡郷などを給与する |
1563 | 永禄6 | 旧浜松 | 今川氏、遠江浜名郡の某郷の指導者に対し年貢納入以前に借米・借銭の催促・俵物の移動禁止など年貢収納について指示する |
1563 | 永禄6 | 旧浜松 | 今川氏、中安兵部少輔安定の処分をきめた朱印状を宇布見郷の今川氏代官中村源佐衛門に下達する |
1563 | 永禄6 | 旧浜松 | 今川氏真、遠江堀江で「下方枡」を採用する |
1564 | 永禄7 | 旧浜松 | 家康の兵、鷲津本興寺に乱入する、氏真頭陀寺城を攻撃 |
1564 | 永禄7 | 旧浜松 | 今川氏真、尾奈郷を浜名三郎政明に扶助する |
1564 | 永禄7 | 旧浜松 | 氏真と引馬城主飯尾連竜、和を結ぶ |
1565 | 永禄9 | 旧浜松 | 家康、重ねて両名に記請文を送る、2家康、加賀守に所領安堵状をあたえる |
1565 | 永禄8 | 旧浜松 | 氏真、江馬安芸守・加賀守に所領安堵状をあたえる、また三浦与次に引馬領内において所領をあたえる |
1565 | 永禄8 | 旧浜松 | 引馬城主飯尾連竜、駿河府中で氏真に誘殺される、家康、江馬安芸守・加賀守に記請文を送る |
1565 | 永禄8 | 旧浜松 | 遠江見付国府の米屋弥九郎、見付城の塀・柱などの修理をつとめ、今川氏から酒役を免除される |
1565 | 永祿8 | 旧浜松 | 東漸寺(成子)に五輪塔 |
1566 | 永禄9 | 旧浜松 | 今川氏真、飯尾豊前守を成敗したときの、三浦正俊の戦功に対し、その子与次に、引馬領内に所領を与える(小栗文書) |
1567 | 永禄10 | 旧浜松 | 氏真、浜名湖西岸に境目城を築く |
1567 | 永禄10 | 旧浜松 | 今川氏真、井伊谷に徳政令を発するが、井伊直政は祝田郷中・都田上下の給人衆に命じその実施をさまたげる |
1567 | 永禄10 | 旧浜松 | 氏真、鈴木重時・近藤康用に引馬領内において所領をあたえる |
1567 | 永禄10 | 旧浜松 | 里村紹巴、頭陀寺に泊り、気賀の山村修理亮の邸で連歌の会、本坂峠路途絶のため浜名湖を舟でわたる |
1567 | 永禄10 | 旧浜松 | 今川氏真、入野郷のうち、年貢105貫文の土地を熊野那智神社に寄進する |
1568 | 永禄11 | 旧浜松 | 分器稲荷、創建されるという |
1568 | 永禄11 | 旧浜松 | 引馬領入野郷の住民、「引間城内之堀25間」の修築を課せられる(米良文書) |
1568 | 永禄11 | 旧浜松 | 今川氏真、再び井伊氏に徳政を命令する |
1568 | 永禄11 | 旧浜松 | 徳川家康、浜松に入り町名主を留任させる |
1568 | 永禄11 | 旧浜松 | 徳川家康、遠江に侵入、道案内井伊谷三人衆、18引馬城に入る |
1568 | 永禄11 | 旧浜松 | 井伊氏、都田に給人をいれる |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 浜名三郎政明、徳川家康の進駐に抵抗し、浜名城を退城する |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 堀江城大沢基胤ら、宇布見のとりでを攻撃、2家康、宇津山城を奪回、3気賀堀川のとりでを攻略、堀江城大沢氏降服する、 |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 徳川家康、遠江での作戦にあたり、舞坂に対し伝馬押立夫など一切の提供を禁止する |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 家康懸川城を攻略する |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 徳川家康、見付の問屋衆12人に枡座を結成させ、判をついた枡を遠江での法廷枡と定める |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 徳川家康、山野荘土橋郷8貫文を熊野那智神社に寄進する |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | 今川氏管理の今切渡、この年から徳川家康の管理にうつる |
1569 | 永禄12 | 旧浜松 | この年末までに家康の遠江経営はほぼその全土におよぶ |
1569 | 永祿12 | 細江 | 徳川家康、細江町の堀川城を攻撃 |
1570 | 元亀1 | 浜北 | 元亀年間岩水寺兵火にかかる |
1570 | 元亀1 | 旧浜松 | 徳川家康、引馬(浜松)に移る(当代記) |
1570 | 元亀1 | 旧浜松 | 中安兵部少輔安定、姉川の合戦で勇戦し、家康の馬前で戦死する |
1570 | 元亀1 | 旧浜松 | |
1570 | 元亀1 | 旧浜松 | 家康、三河随念寺に対し井伊谷の地を寄進する |
1571 | 元亀2 | 旧浜松 | 信玄、田中城に進出、大井川をわたり遠江に侵入、3高天神城を包囲する |
1571 | 元亀2 | 旧浜松 | 延暦寺、徳川家康に対し蓮華寺領と一宮杜僧職をかえすことを申しいれる |
1571 | 元亀2 | 旧浜松 | 家康、嫡子信康の元服を祝い、浜松城で能楽を催す |
1572 | 元亀3 | 旧浜松 | 信玄、遠江・三河侵入を宣言する |
1572 | 元亀3 | 旧浜松 | 信玄、甲斐府中を発し、遠江に侵入する |
1572 | 元亀3 | 旧浜松 | 家康、三方原において信玄と戦い敗れる |
1572 | 元亀3 | 旧浜松 | この年、信玄、刑部において、越年する |
1573 | 天正1 | 旧浜松 | 家康港湾の関所に津留めを命令する |
1573 | 天正1 | 旧浜松 | 室町幕府滅亡 |
1573 | 天正1 | 旧浜松 | 船越村と池田村の天竜川渡船掟を定める |
1574 | 天正2 | 旧浜松 | |
1574 | 天正2 | 旧浜松 | 勝頼、高天神城を包囲、小笠原長忠は降服する |
1574 | 天正2 | 旧浜松 | 西嶋村海岸に唐船が漂着する |
1574 | 天正2 | 雄踏 | |
1575 | 天正3 | 旧浜松 | 家康、諏訪原城を攻略し、牧野城と改める |
1577 | 天正5 | 旧浜松 | 武田氏、遠江白羽郷に対し、逃亡中の農民の還住を命ずるとともに「渡海の奉公」を義務づける |
1577 | 天正5 | 旧浜松 | 松尾社、旧塩市口より本魚町に移るという |
1578 | 天正6 | 旧浜松 | 浜松城を修築する |
1578 | 天正6 | 旧浜松 | 遠江に地震がおこる |
1579 | 天正7 | 旧浜松 | 家康、三河良良に放鷹する |
1579 | 天正7 | 旧浜松 | 松平家忠奉行、浜松城を修築する |
1579 | 天正7 | 旧浜松 | 秀忠、浜松城に生まれる |
1579 | 天正7 | 旧浜松 | 晦日家康正室築山殿、佐鳴湖湖畔小籔において殺される |
1579 | 天正7 | 旧浜松 | 信康、父家康の命により二俣城に切腹する、21歳 |
1580 | 天正8 | 旧浜松 | 家康、五郎太郎を浜松荘の大工職とし、大工を統制させる |
1580 | 天正8 | 旧浜松 | 家康、入野竜雲寺の「大宮」に対し、入野本所領と竜雲寺領を住持瑞椿にゆずることを要請する |
1580 | 天正8 | 旧浜松 | 五社明神、浜松城内から常寒山へ遷座、このとき金山社・法雲寺もともに城内から移転するという |
1581 | 天正9 | 旧浜松 | 高天神城陥落、城将岡部長教戦死する |
1581 | 天正9 | 旧浜松 | 浜松城を修築する |
1582 | 天正10 | 旧浜松 | 織田信長、武田勝頼父子を滅し、家康の歓待をうけ東海道を安土城に向かい、4.16池田宿から、家康が大天竜に架けた舟橋をわたり、小天竜をこし浜松城に泊る |
1582 | 天正10 | 旧浜松 | 織田信長、浜松をでて、「御座船」で今切を渡り、家康の饗宴をうける |
1582 | 天正10 | 旧浜松 | 家康、普済寺客殿を造営する |
1582 | 天正10 | 旧浜松 | 徳川家康、三河の竜海院に対し遠江・三河両国の伝馬手形を与える |
1583 | 天正11 | 旧浜松 | 家康、浜松城に前太政大臣近衛前久(竜山)を饗応し、今川宗誾(氏真)も陪席する |
1583 | 天正11 | 旧浜松 | 徳川家康、分国中で黄金は守随の秤で商売することを示指する |
1583 | 天正11 | 旧浜松 | 徳川家康、可睡斎を三河・遠江・駿河3国の僧録司とする |
1583 | 天正11 | 旧浜松 | 家康、浜松荘の樹福院観音領に棟別銭を免除する |
1584 | 天正12 | 旧浜松 | 家康、三河・遠江に徳政令を出す |
1584 | 天正12 | 旧浜松 | 高力忠房、浜松で生まれる |
1586 | 天正14 | 旧浜松 | 家康、鴨江寺に対し諸役を免除する、また大通院の条規を定める |
1586 | 天正14 | 旧浜松 | 徳川家康、浜松城を去り、駿河城に移る(家忠日記) |
1587 | 天正15 | 旧浜松 | 家康、この年から同18年にかけて駿府・岡崎間の各宿駅に伝馬朱印状を発する |
1588 | 天正16 | 旧浜松 | 徳川家康、天正15年分の宇布見の年貢を吉美御蔵と浜松御蔵に納めさせる |
1589 | 天正17 | 旧浜松 | 家康、和地村に七か条定書を下付する |
1589 | 天正17 | 旧浜松 | 家康、7か条法度で「下方枡」を公定枡とする |
1589 | 天正17 | 旧浜松 | 家康が三河・遠江・駿河・甲斐・信濃に総検地 |
1590 | 天正18 | 旧浜松 | 秀吉、頭陀寺に禁制を下す |
1590 | 天正18 | 旧浜松 | 豊臣秀吉、二諦坊に寺領45石を寄付し、三河・遠江・駿河3国の白山先達を安堵する(二諦坊文書) |
1590 | 天正18 | 旧浜松 | 堀尾吉晴、近江佐和山より入府、浜松城主となる |
1590 | 天正18 | 旧浜松 | 浜松魚商人、城内から本魚町に移るという |
1591 | 天正19 | 旧浜松 | 秀吉朝鮮攻略、軍役令を遠江・駿河・伊豆・三河などに出す |
1591 | 天正19 | 旧浜松 | 「清次男女」村櫛観音堂に鰐口を寄進する |
1593 | 文禄2 | 旧浜松 | 堀尾吉晴、普済寺に制礼を下す |
1599 | 慶長4 | 旧浜松 | 堀尾忠氏、吉晴を継ぎ浜松城主となる |
1600 | 慶長5 | 旧浜松 | 関ヶ原の戦 |
1600 | 慶長5 | 旧浜松 | 市野惣太夫遠江の代官となり浜名十郷その他を支配する |
1600 | 慶長5 | 旧浜松 | 堀尾忠氏、出雲松江へ転封となる |
1600 | 慶長5 | 旧浜松 | 菩提寺(市内三組町)ができる |
1600 | 慶長5 | 旧浜松 | 本魚町の魚商、肴町に移る |
1600 | 慶長5 | 旧浜松 | 今切関所(新居関所)開設 |
1601 | 慶長6 | 旧浜松 | 伝馬制度定まる、十王町を伝馬町と改め、伝馬役町とし問屋会所をおく |
1601 | 慶長6 | 旧浜松 | 松平忠頼、美濃金山より入府、浜松城主となる |
1601 | 慶長6 | 旧浜松 | 気賀関所開設 |
1602 | 慶長7 | 旧浜松 | 彦坂光正、飯田新田町百姓中に新田開発を促す |
1603 | 慶長8 | 旧浜松 | 徳川家康、征夷大将軍に捕せられ幕府を江戸にひらく |
1603 | 慶長8 | 旧浜松 | 三州塩の気賀入荷を禁ずる |
1603 | 慶長8 | 旧浜松 | 下垂町の真宗道場、芳蘚寺と称する |