中村家住宅なかむらけじゅうたく
所在地 | 浜松市西区雄踏町宇布見 |
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中村家住宅とは
2000(平成12)年、旧雄踏町は主屋など建物の寄付を受け、2001(平成13)年度から15年度にかけて解体修理を行い、その際の調査で建築当初の姿とその変遷が明らかになり、当初の姿に復元されている。
約3000㎡の屋敷のほぼ中央に正面を南にむけて立つ主屋の規模は、間口21.3m、奥行11.2m、平面積238.7㎡と大規模で屋根は寄棟造りの茅葺。建築年代は、建築素材などから1688(元禄元)年頃と考えられている。
建物の特徴
建物は棟通りと梁間方向中央の柱通りをそろえ、これを境にして、部屋が互い違いの配置になっているのが特徴。構造では外回りの柱が省略がなく、部屋の境はほとんど柱を1間ごとに、礎石の上に直接たて、貫(ぬき)で相互を連結している。
中村家初代当主
中村家の初代中村正範は、源範頼の末裔の武士で、大和国広瀬郡中村郷に住んでいた。1481(文明13)年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎などが与えられ、1483(文明15)年に宇布見に屋敷を構えた。
16世紀の今川氏の時代には同氏の家臣で代官を務めた。
中村家と徳川氏
1568(永祿11)年に徳川家康が遠江に入国したとき、18代正吉(まさよし)は舟を出して迎えるなど徳川につかえ、今切軍船兵糧奉行や代官をつとめていた。
こうした関係から1574(天正2)年2月8日に徳川家康の側室のお万の方が家康の第2子である於義丸(おぎまる:後の結城秀康)をこの屋敷で出産することになった。その時の後産を埋めた「胞衣塚(えなづか)」が現存している。
1590(天正18)年徳川家康が関東へ移ったが、18代中村源左衛門正吉は宇布見村に残った。当時は庄屋を務めていたが、藩祖を結城秀康とする越前福井藩や津山藩からは士分格として扱われ、越前松平家一門や浜松藩主から、於義丸誕生の御殿や胞衣塚の修繕を目的として、金銀を与えられている。
また徳川御三家、老中、大阪城代、京都所司代の諸大名たちや越前松平家一門の大名が東海道を通行するときには、中村家の歴代当主がお目見えをするのが恒例となっていた。
このように徳川氏との関係で格式の高い家柄であるため、一般の庄屋たちとは異なり、浜松城主と単独で拝謁できるほど、古くからの特異な庄屋として知られていた。
明治以降の中村家当主
明治維新時の28代貞則(さだのり)は、討幕軍を警護する遠州報国隊の結成に尽力し、郷社の神官を勤め、後に郵便局を開設した。
29代東海は神職となり当地方の精神的な支柱として住民の尊敬を集め、東海様とよばれた。
30代正輔(まさすけ)は服部、中村養鼈場を開いたほか、1902(明治35)年には郵便局長に就任。31代幸八は1949(昭和24)年から衆議院議員として長く政界で活躍した。
摘要
中村家住宅は1973(昭和48)年6月2日国指定重要文化財となった。
関連項目
■参考
ぐるっと西区まちあるき取材にて
2013年3月改訂
浜松といえば
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