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舞阪
- ~794年(飛鳥以前、飛鳥、奈良)
- 794年~1335年(平安、鎌倉)
- 1336年~1603年(南北朝、室町、安土桃山)
- 1603年~1716年(江戸(前期))
- 1717年~1836年(江戸(中期))
- 1837年~1867年(江戸(後期))
- 1868年~1893年(明治(前期))
- 1894年~1912年(明治(後期))
- 1912年~1926年(大正)
- 1926年~1937年(昭和(戦前前期))
- 1937年~1945年(昭和(戦前後期))
- 1945年~1956年(昭和(戦後前期))
- 1957年~1972年(昭和(戦後中期))
- 1973年~1989年(昭和(戦後後期))
- 1989年~(平成)
1937年~1945年(昭和(戦前後期))
西暦 | 年号 | |
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1937 | 昭和12 | 舞阪町の全域が都市計画区域に指定される |
1937 | 昭和12 | 北京郊外の廬溝橋で日中両軍が衝突、これを契機に日中全面戦争に入る |
1937 | 昭和12 | 中ノ島に鰻供養の魚籃観音が建立される(昭和43年乙女園に移転) |
1937 | 昭和12 | 日独伊防共協定調印、戦時色強まる |
1938 | 昭和13 | 遠州電気鉄道㈱、浜松~二俣間の乗合バス運行中止 |
1938 | 昭和13 | 飛島組が乙女園に豪華なホテルを完成させた。外観は宇治の平等院を模してあるが、内部はすべて洋風で、皇族や政治家などの著名人や外国人がよく利用する |
1938 | 昭和13 | 国家総動員法公布 |
1938 | 昭和13 | 支那事変で徴用された舞阪の漁船(一心丸、海積丸)が揚子江を遡り、漢口付近で任務につく |
1939 | 昭和14 | 旧青年学校が義務制となる |
1939 | 昭和14 | 物価統制令公布 |
1940 | 昭和15 | 国鉄二俣線、掛川~新所原間が開通し全線開通(現在の天竜浜名湖鉄道) |
1940 | 昭和15 | 遠鉄西鹿島駅と二俣線にし鹿島駅を共同駅として使用 |
1940 | 昭和15 | 浜表船揚場埋立て編入(5,512㎡) |
1940 | 昭和15 | 浜表漁業組合出願分の埋立て編入(5,579㎡) |
1940 | 昭和15 | 日独伊三国軍事同盟調印 |
1940 | 昭和15 | 第5回国勢調査、世帯数972、人口5,631 |
1940 | 昭和15 | 舞阪魚株式会社の卸売市場開設権、設備等一切が統制国策に呼応(舞阪町漁業協同組合に譲渡される) |
1941 | 昭和16 | 学制改革により小学校は舞阪国民学校に改称、児童数873人 |
1941 | 昭和16 | 生活必需品物資統制令公布、米穀配給帳制を実施 |
1941 | 昭和16 | 舞阪築港のため安芸博士視察する |
1942 | 昭和17 | 浜名湖のアサリで中毒発生、112名死亡 |
1942 | 昭和17 | 新居町でアサリ中毒事件発生、舞阪町でも犠牲者でる |
1942 | 昭和17 | これまで新居町地籍であった弁天島(丸文より西)3,285の1ほか98筆(43,438㎡)舞阪町に編入 |
1942 | 昭和17 | 浜表、灯柱の北一帯を埋立て編入(6,323㎡) |
1943 | 昭和18 | 浜名湖でカキ中毒発生、患者18人、内6人が死亡 |
1943 | 昭和18 | 稲荷山地先から弁天大橋を通る国道一号線が開通、旧国道(往環道路)は町道に移管 |
1943 | 昭和18 | 戦時体制により浜名湖東岸地区の造船関係者が統合され舞阪造船が設立される |
1943 | 昭和18 | 徴兵年齢が一年引き下げられ19歳となる |
1944 | 昭和19 | 防空壕作られ始める |
1944 | 昭和19 | 漁協の名称を変更し、舞阪町漁業会となる |
1944 | 昭和19 | B29東京初空襲 |
1944 | 昭和19 | 県西部に強震あり(東南海地震、震度5)しかし戦争下のため報道されず、弁天橋の橋脚が不等沈下し、橋が波状となる |
1944 | 昭和19 | 県の指導で舞阪の表浜に掛水式塩田がつくられ、舞阪町、北浜村、神久呂村が合同で製塩を始める |
1945 | 昭和20 | 遠州鉄道、一部路線でバス営業運転再開 |
1945 | 昭和20 | B24、一機が漁船を襲撃、死者4名、重傷5名 |
1945 | 昭和20 | 浜松市B29の大空襲を受けて市の中心部すべて焦土と化す、死者1157人 |
1945 | 昭和20 | B29、一機が舞阪監視哨北70m付近に爆弾4個を投下、死者2名、重傷1名、軽傷1名、非住家全壊7、家半壊10 |
1945 | 昭和20 | 夜半遠州灘洋上30ひろぐらいの所を米軍艦7隻が西から東へ移動しながら猛烈な艦砲射撃を行う |
1945 | 昭和20 | ポツダム宣言を受諾(無条件降伏)して終戦、満州事変から太平洋戦争にかけての舞阪町での戦死者は226人 |
1945 | 昭和20 | 米軍、連合軍の捕虜収容のため表浜に上陸、警防団員が上陸用舟艇に乗り新居町駅まで湖内の水先案内を務める。また上陸した米軍が舞阪町内を巡回する。新居町駅より捕虜を運んだ |
1945 | 昭和20 | 自治青年団結成式、再び活動を開始する |
1945 | 昭和20 | 米機動部隊による浜松地区襲撃により、舞阪駅前の日蓄コロンビアが空襲を受け、警防団出動途中に艦載機の機銃掃射を受ける |