那須田又七なすだまたしち
誕生地 | 現:浜松市西区舞阪町 |
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生年 | 1842(天保13)年11月13日 |
没年 | 1900(明治33)年9月4日 |
那須田又七とは
浜名湖開発の先覚者として、初めて舞阪町と新居町を結ぶ橋を架けたり、弁天島で最初の観光事業である弁天島海水浴場を開いたりしている。
また、成功には結びつかなかったが、ウナギやスッポンの養殖にも取り組んでいる。
那須田家
那須田家はもともと豊臣家に仕えていた武士であったが、1615(慶長20)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると浪人となり、舞阪の地で荒地を耕して農業を営み、細々と暮らすようになった。
それから十数代後、那須田又七の祖父にあたる又七(※又七は祖父から名前をもらっている)は実に賢く、舞坂宿の駅長を務めたほどであり、貧しい百姓であった那須田家は大きく繁栄。父又十は醤油醸造と質屋を営み、祖父又七は苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されたほどの豪家に那須田又七は生まれた。
生涯
1842(天保13)年、舞阪町の那須田又十の長男として生まれる。
幼少期より祖父譲りの秀才さを見せるとともに、好奇心旺盛であり、特に浜名湖へ出ることが好きだった。
1860(万延元)年、父又十が他界すると家業の醤油醸造と質屋を継ぐ。また、父が祖父から継いだ舞坂宿駅長も世襲すべきであったが、未成年であった事に加え、家業は他人に頼る事ができなかったので、そちらは辞退している。
その後、明治維新によって舞坂宿もあわただしくなると、駅役所へと出向き事務を手伝うようになった。
1870(明治3)年、駅制度廃止によって飛脚が盛んになり、翌年に郵便法が制定されると、すぐに又七は舞阪郵便局の局長として務めた。そして、あまり乗り気でなかった醤油製造の事業は、これを機に廃業している。
1877(明治10)年、舞坂宿戸長に任命される。
1881(明治14)年に舞阪と新居町を結ぶ初めての橋、浜名橋を建設。
1889(明治22)年、療養地として弁天島海水浴場を開いた。
1894(明治27)年には舞阪の北方にある私有地の一部を改造し、ウナギ・スッポン・鯉の養殖を始める。しかし、成功には至っておらず、のちに服部倉治郎らの手によって事業化に成功している。
1897(明治30)年、浜名郡会議員に就任し、2年間務めた。
1900(明治33)年に59歳で他界している。
浜名橋架橋
駅制度廃止に加え、1871(明治4)年に堀留運河がつくられた事により、舞阪の町は次第に寂れていったため、那須田又七は舞阪・新居間を橋で結ぶ計画を立てた。しかし、海上5kmを隔てている舞阪・新居間を結ぶには、その間にある弁天島などの小島を利用しても相当な長さの橋を架けなければならず、容易なことではなかった。そこで、天竜川に650間(約1182m)の木橋を架ける事に成功した金原明善の協力を得て、橋の架橋に取り組むこととなった。
まず、1880(明治13)年に「浜名社」という現在の株式会社のような団体を設立。出資を募り、1881(明治14)年2月より架橋工事に着手した。舞阪・弁天島間の第一木橋と、弁天島・西弁天島間の第二木橋の建設は難なく完成したが、西弁天島・新居間は1200m以上も離れており、1本の橋で結ぶことは困難であった。そのため、西弁天島・新居間にある浅瀬部分を埋立て、第三木橋と第四木橋を架橋。12月には舞阪・新居間を結ぶ総延長2295mの浜名橋が完成した。
この珍しい長橋を見ようと見物人が集まるとともに、橋からの景色が絶景だったため、東海道を旅する人々の通行も自然と多くなり、舞阪の町は再び活気を取り戻した。
しかし、幾度となく破損や流失がおき、その度に又七は私財を投じて修復したが、1889(明治22)年の東海道鉄道開通によって渡橋者は減少していたため、1899(明治32)年の暴風雨によって流された後は修復されることはなくなった。
参考
『ひと・まち・80年、そして未来』(浜松市)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社)
『遠州偉人伝 第二巻』(浜松民報社)
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