堀留運河ほりどめうんが
所在地 | 浜松市中区菅原町 |
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堀留運河の建設
江戸時代、港が無かった浜松では、江戸や大坂(現:大阪)へ物資を送る場合は、掛塚や新居の港まで運ばなくてはならなかった。浜松城下から浜名湖を経て、遠州灘に船を通じる計画はそれ以前からあったが、それに繋がる具体案として、浜名湖から遠州灘につながる水路を開く計画をたてた。
江戸からきた井上八郎、田村弘蔵らを地元有力者がバックアップし、1871(明治4)年から運河造りがスタートした。ちょうどそのころ、職を失った武士の起用にもつながったことから、工事は予想以上の早さで進められ、4月に始まった工事が7月下旬には完成した。
上新町(現:菅原町)から明神野川まで約1.5㎞の運河を新たに掘り、起点の上新町には港が設けられた。これまで浜名湖からの荷物は入野川土橋で陸揚げして浜松へ運ばれていたが、この運河の完成で、直接浜松まで輸送できるようになったのは大きな進展。井上と田村の名前から「井ノ田川」と名づけられたが、一般的に掘留運河と呼ばれていた。
堀留運河の利用
運河完成の翌年1872(明治5)年には新所まで船が通行し、1874(明治7)年の浜松宿火災のときには必需品の特別輸送に活躍した。
1876(明治9)年には薪燃料による小型の蒸気船が導入されたことで、運行時間が大幅に短縮。さらに60人が乗船できる大型船も通るようになり、人々や物資が行き来し賑わった。
しかし1881(明治14)年に浜名湖に橋が架けられ、さらに1888(明治21)年に現:東海道線が開通したことで、動線が変化して運河利用は減り、次第に歴史のものとなった。
1906(明治39)年鉄道工場の設置が決まると、鉄道引込線敷設のため、舟留と水路の一部は埋め立てられてしまった。
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