弁天島 べんてんじま
所在地 | 浜松市西区舞阪町弁天島 |
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弁天島とは
弁天島はもともと舞沢(現:舞阪)から西に向かって突き出た半島であったが、1498(明応7)年の明応地震によって切断されたことにより現在のような島となった。
また、1709(宝永6)年に弁天神社がこの地に勧請されたことにより、以前は「西之野」や「孤島(きつねじま)」と呼ばれていたが、後に「弁天島」と呼ばれるようになった。
もともとは無人島であり、1889(明治22)年に海水浴場や旅館が開設されたことにより、観光地や保養地として注目され、開発が始まった。多くの旅館や別荘が建ち並び、昭和のはじめには別荘地開発を目的とした埋立地が造成されている。
1973(昭和48)年8月15日には島南側の干潟に舞阪町観光協会が鉄鋼製の高さ18メートルの大鳥居の観光シンボルタワーを建設。シンボルタワー周辺は潮干狩りの名所として毎年多くの観光客が訪れる。
弁天島の旅館
弁天島に初めて旅館がつくられたのは1889(明治22)年のこと。舞阪の那須田又七(なすだまたひち)が療養地として弁天島海水浴場を開くのと同時に、海水旅館「一碧楼(いっぺきろう)」を開いたことから始まる。
開業後、経営は順調で宿泊客も増加していたため、さらに一棟増築するが、それから間もなくして暴風により新旧両館とも倒壊し、流失してしまった。
その後、一碧楼で経営を担っていた堀江清平(せいへい)は独力で新しく「茗荷屋(みょうがや)」を開業し、さらに1893(明治26)年頃には杢谷清一郎(もくやせいいちろう)を発起人として「浜名館」がつくられた。
明治30年代には「松月」「開春楼」「中村館」「如水楼」「湖月」「丸文」「東洋館」「潮舎」などといった新しい旅館が次々に誕生した。
埋立地(新弁天・乙女園・蓬来園・千鳥園・観月園・渚園)
最初につくられた人工島は弁天島の西側にある「新弁天」。1881(明治14)年に架けられた浜名橋をつなぐ際に堤としてつくられた。
その後、弁天島に海水浴場や旅館が開設され、観光地や保養地として注目されると、多くの旅館や別荘が建てられた。そこで、昭和初期には弁天島北側に湖面を埋立て、人工の島を造るという事業が弁天島埋立土地株式会社と舞阪町によって始められた。1932(昭和7)年には西野島浦の一部・蓬来園・千鳥園・観月園・乙女園が完成している。
その後、この4つの人工島は一般に売却されることとなり、浜松の商人や実業家によって買われ、別荘の建設が盛んになっていった。
1938(昭和13)年3月1日には乙女園に浜名湖ホテルが開業した。宇治の平等院鳳凰堂を模した外観だが、内部はすべて洋風、22の部屋があり、食事はフランス料理が出されたという。また、弁天島駅に送迎用の馬車が用意されるなど、豪華な内容だったが、客足が伸びず、開業から1年半後の1939(昭和14)年に閉業している。その後、戦時中には海軍の療養所として利用されたが、1957(昭和32)年にプリンスホテルが買収し、解体されて箱根芦ノ湖畔に移築された。
ホテルが移築された後に県営の弁天島水族館が開設された。また、乙女園の東側には浜名湖競艇場が設置されるが、それも新居町中之郷(現:湖西市新居町中之郷)へと移され、1965(昭和40)年には蓬来園から静岡県水産試験場浜名湖分場が移された。
1967(昭和42)年には千鳥園のさらに北側に「渚園」が埋め立てられている。
関連項目
参考
『浜名湖・自然と歴史と文化』(明文出版社)
『舞阪町歴史散歩』(舞阪町)
『遠州歴史散歩』(静岡新聞社)
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