金原明善きんぱらめいぜん
誕生地 | 現:東区安間町 |
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生年 | 1832(天保3)年6月7日 |
没年 | 1923(大正12)年1月14日 |
金原明善とは
金原明善は、天竜川の治水事業、北海道開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した人物。
生涯
1832(天保3)年6月7日長上郡安間村(現:東区安間町)生まれ。
酒造と質屋をしている大地主の金原家に長男として誕生。父は軌忠、母は志賀子。
幼少期(弥一郎と名乗った)は弱々しく家の中で遊ぶことが多かった。住んでいるところから5km西の龍禅寺地蔵院の寺子屋に通い、その頃習った「学問は学問の為の学問ではない、実際の為の学問だ」が金原家代々の信念となっている。
17歳のとき激しい熱病にかかったが、天竜川の水を飲み全快したことから、後年「私にとって天竜川は命の恩人」と語っている。
母、志賀子が36歳という若さで死去。
弥一郎は22歳で17歳の玉城を嫁に迎えた。
1868(明治元)年37歳、弥一郎の名を久右衛門に改める。
新政府(岩倉具視、木戸孝允ら)へ天竜川治水の建白書を提出。
吉田裁判所から天竜川水防工事係を任命され、水害対策に奔走する。
自身の金を出したほか、公債を募集し1868(明治元)年工事に取り掛かると、
工事場の小屋に寝起きをして睡眠時間は2、3時間ほどだったという。
1871(明治4)年廃藩置県の年、久右衛門は「学問が必要。心を豊かにできれば立ち上がることが出来る」と金原家塾(後の水利学校)という学校を始めた。15歳~20歳までの青少年たちに、3年間土木治水科目を学ばせ、天竜川の治水工事に当たらせ、優秀者は内務省土木局に就職させたり、大学に入学させたりした。生徒数が多くなると、自宅南側に校舎を建設。それが発展したのが現在の和田小学校。
二俣町鹿島から掛塚港まで25㎞の両岸を福岡久と測量し、「天竜川は八町巾が必要」という結論を出す。工事を進める資金が無かったため、自ら堤防修繕費として毎年1千円を献納すると申し出た。
1873(明治6)年世の中のために明るい善いことをしよう、という考えから名前を金原明善とする。この年「天竜川普請専務」を命ぜられ、民間人初の天竜川工事一切の責任者となった。
堤防工事をする会社を地元の手で造ろうと計画書を作り、浜松県令の林厚徳ほか人々が賛同。
伝馬町に地方銀行の初である浜松資金貸付所を設立し、また天竜川堤防会社社長となる。
1875(明治8)年治河協力社と改称。1876(明治9)年浜松県が静岡県と合併して新しい静岡県となった年、天竜川工事の補助金が減ることになった。明善は静岡県庁では埒が明かないと1877(明治10)年国の大久保利通に面会し「自身の全財産を政府へ献納する代わりに従来の補助金額にしてほしい」と願い出た。
1878(明治11)年明治天皇が拝謁。このときの「明治天皇玉座跡」の行幸記念碑は1898(明治31)年に治河協力社跡に建てられ、現在は天竜川堤上に残っている(※画像)。
1882(明治15)年明善が地方の有力者を説得して資金を出させ、浜名湖架橋が完成。
1885(明治18)年龍山の瀬尻に植林することを決意。1886(明治19)年2月から着手した瀬尻御料林事業は15年計画より2年早い1898(明治31)年7月に完成した。
1889(明治22)年、青年の鈴木信一が明善の元に訪れる。彼は明善の第一門弟として金原四天王の一人といわれ、後の浜松地方財界の大物となった。
この年、東海道線が開通したため、翌年の1890(明治23)年天竜川出張所を作り、天竜運輸株式会社を設立。1898(明治31)年には天竜川出張所が昇格され天竜川駅ができた。
また材木は製材して送るため、和田村半場(現:材木町)で機械製材事業を開始。これが後の天龍木材株式会社となる。
1897(明治30)年為替店を金原銀行として頭取に就任。
1900(明治33)年自らの進むべき道
①実を先にして名を後にす
②行いを先にして言を後にす
③事業を重んじて身を軽んず
という金原家の家憲を制定する。
1902(明治35)年静岡県山林協会を設立し、その会長となり富士山の植林を開始。
1904(明治37)年金原疏水財団を設立。その後、財団法人金原治水財団と改称された。
1908(明治41)年和田村村長就任。
1911(明治44)年80歳で73歳の一度目に続き2度目の富士登山。
この年、国では病苦の貧困者を救うため、恩賜財団済生会という社会事業団体が設立されることになり明善も寄付。一般的に多くて1000円という中で5万円を寄付した。
この偉業をたたえ1913(大正2)年、県費で書籍『金原明善と其の事業』が作られた。
1919(大正8)年8月8日に88歳の米寿の祝いが聴濤館で行われた。
1922(大正11)年91歳で、瀬尻の山が観たいと東京から出向く。中ノ町から船で天竜川を上り、山駕籠で奥へ進んだ。この際に宿泊した梅の平は1942(昭和17)年に明善神社を建立している。場所は天竜区佐久間町浦川から車で約40分の場所にある。
1923(大正12)年1月13日92歳死去。天竜川町妙恩寺に祀られる。
1960(昭和35)年明善の業績を顕彰し、永く後世に伝えようと明善記念館が設立された。
記念館には明善の遺品、遺墨、関係資料、また明善と親交のあった方々の遺墨、関係文書等が展示陳列保存されている。また隣接する明善の生家も見学でき、2010(平成22)年から改修が行われた。
現在も、毎年明善が亡くなった1月には明善祭が、明善会(浜松市長が会長)主催で行われている。2010(平成22)年は1月14日に87回目の明善祭が行われた。
参考・見学
書籍
『遠州偉人伝第二巻』
『静岡県歴史人物事典』
『浜松ものづくり人物伝』
施設
浜松といえば
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