特集
家康の散歩道
徳川家康が29歳から45歳までを過ごした浜松。
そんな家康と関わりのある浜松の地を巡ってみました。
コース
徳川秀忠公誕生の井戸 【MAP】
家康の側室である西郷局が秀忠を産んだ際、産湯に使ったとされる井戸の跡。遠州病院駅の隣にこっそりと隠れてありました。何気なく横を通っただけでは気づかないかもしれないので、意外と知らない人も多いのではないでしょうか。
今では面影をまったく感じられませんが、秀忠が誕生した1579(天正7)年当時、ここには下屋敷が構えられていました。当時はどのような風景が広がっていたのでしょうか。
椿姫観音 【MAP】
椿姫観音 は家康が浜松に入ってきた際、引間城主の妻であるお田鶴の方が家康軍と戦い、侍女たちと討死したといわれる場所。
住宅が建ち並ぶ道の角にお堂が建てられています。小さなお堂なので探しながらでないと、見過ごしてしまうかもしれません。
家康軍に攻め込まれ、必死の思いで相手に抗戦したお田鶴の方と侍女たちの、壮絶な戦いがこの周辺で繰り広げられたとは今ののどかな街並みからは想像ができません。
お堂には花が飾られてきれいにされていたり、椿姫観音堂史跡保存会があったりするので、地元の方に愛されているのでしょう。
「商売繁盛」や「長子誕生の仏」としても知られているようで、お参りされる方もいるようです。歴史を感じると共に、お参りしていくのもいいかもしれません。
〔お堂内にある祈願石〕
東照宮(引間城跡) 【MAP】
家康を祭神として祭った神社を東照宮といい、日光東照宮や久能山東照宮など全国各地にあります。
浜松にある東照宮は前に挙げた2箇所と比べると、とても小さく、質素に感じますが、ここには浜松城の前身となった引間城がありました。
国道152号線沿いから東照宮を見ると、小高い丘となっているのが見てとれます。東照宮からまわりを見渡すことができ、もともと引間城があったことを考えると、いい立地だったのが感じられます。
引間城は現在の東照宮の境域よりもっと広く、四つの郭から構成されていたそうです。そして、現在は埋め立てられてしまったようですが、西側は深い谷間で自然の要塞になっていたそうです。
拝殿や獅子の台座には、徳川家の家紋である三つ葉葵の紋所を見ることができます。また、拝殿正面には龍の、側面には獅子の装飾が施されているので探してみてはいかがでしょうか。
浜松城 【MAP】
浜松で徳川家康と言えば浜松城を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
野面積みの石垣はとても荒々しく積まれて、崩れやすいように感じますが、頑強で当時のままの姿を残しています。
1958(昭和33)年に再建された天守閣の中には家康に関する資料が置かれており、また3階からは浜松の街が望むことができます。
緑が多く茂り、公園も併設されているので、ゆっくりお弁当でも持ってきて過ごすのもいいかもしれません。
家康公鎧掛松 【MAP】
浜松城からすこし移動した浜松市役所前に一本の松が植えられています。
戦から帰ってきた家康が、松の木に鎧を掛けて一息ついたことから、その松は鎧掛松と呼ばれるようになったそうです。
初代の松は1915(大正4)年の台風で枝が折れて枯れてしまい、二代目の松は戦災によって焼失、そして、現在の三代目の松が1981(昭和56)年に植えられたそうです。
一見なんてことのない松の木にも歴史が隠れていました。
本多肥後守忠真の碑 【MAP】
三方ケ原の戦いで討死した武将のひとりである本多肥後守忠真の戦功碑が犀ヶ崖古戦場の一角、資料館の南側にあります。
忠真は三方ケ原の戦いにおいて、大敗した徳川軍が撤退する際に殿※を買って出て、武田軍の中に切り込んでいき討死しました。碑の題字「表忠彰義之碑」は徳川家16代家達公によってかかれており、忠真が徳川家にとって大きな役割を担ったことがうかがい知れます。
忠真の子、菊丸はそんな父の姿を目の当たりにし、後に出家の道へと進んだそうですが、当時、家族や大切な人を戦によって失う人はとても多かったのでしょう。
※殿(しんがり)/軍が退却するとき、最後尾にあって、追ってくる敵を防ぐ役。
犀ヶ崖古戦場 【MAP】
犀ヶ崖古戦場では三方ケ原の戦いで、家康軍の奇襲に驚いた武田軍が足を踏み外し、多くの犠牲者が出たとされています。
現在、崖はかなり埋めたてられていて、当時とは変わってしまっているようですが、それでも上から崖を覗くと怖くなるくらいの高さがあります。当時の崖の高さはそれ以上というのですから、落ちたらひとたまりもなかったでしょう。
崖には木々が生茂っており、そこに深い崖があるというのは、周りから見ただけでは分かりにくく感じます。奇襲を受けて冷静さを欠いた武田軍は、余計に崖があることに気づかなかったのではないでしょうか。
三方ケ原の戦いで亡くなった多くの将兵を供養するために創建された宗円堂は現在、犀が崖資料館として三方ケ原の戦いに関する資料が展示されています。
〔崖を上から覗いたところ〕
一目見ただけでは地面がどこか分からない
夏目次郎左衛門吉信の碑 【MAP】
犀ヶ崖古戦場の史跡碑から道を渡って反対側に、夏目次郎左衛門吉信の碑はあります。吉信も本多肥後守忠真と同様に三方ケ原の戦いで討死した武将のひとりです。
すぐ横にバス停があり、この碑の前でバスを待つ人の姿も多く見られました。また、目の前が姫街道なので、多くの車が行き交い、たくさんの人の目に触れているのではないでしょうか。
碑の高さは4mにもおよび、とても存在感がある石碑ですが、人々の生活に溶け込んでいるように感じられました。
普済寺 【MAP】
普済寺は姫街道から小道に入った住宅街の中にあります。小道が少し分かりにくいので、間違えやすいかもしれません。
通り沿いにある普済寺の寺門には「立ち入り禁止」の札があるので、寺門をくぐらずに左脇の道を進んでいくと、左手に幼稚園、そして奥に本堂があります。
普済寺は三方ケ原の戦いで家康によって焼かれましたが、その後、家康は七堂伽藍を再建したそうです。
山内に北山稲荷がありますが、日本三大稲荷のひとつである愛知県の豊川稲荷は普済寺の末寺であるといわれています。
西来院 【MAP】
普済寺からまっすぐ歩いていくと、右手に西来院の石柱があります。そこから門を通っていくと西来院にたどり着くことができます。
門を通ってまず目に留まるのが六地蔵です。この六地蔵は浜松最大最古といわれています。
さらに奥に進むと本堂があります。本堂内の祭壇はとてもきらびやかに飾られており、外観とはまったく違った雰囲気を味わうことができます。
そして、本堂の西側にある墓苑へと進むと、家康の正室である築山御前の廟堂(月窟廟)があります。本堂前には藤があり、開花時期には多くの花で目を楽しませてくれそうです。
宗源院 【MAP】
西来院から更に進んでいくと、宗源院の参道が住宅街の中にあらわれます。そして、参道を進んでいくと、その先に宗源院が見えてきます。
宗源院の中には三方ケ原の戦いで討死した武将の成瀬藤蔵正義や、旗手であった外山小作正重などの墓があります。
それらの墓は、本堂左方の小道を進んで行った奥にあり、少し見つけにくいかもしれません。小さな看板が出ているので、それを探してみてください。
また、この寺には今川義元と氏真の判物※が残されているそうですが、実際のものを見ることはできません。
※判物(はんもつ)/室町時代以降に将軍や大名などが花押を署して発給した公的文書。
浜松市博物館 【MAP】
2011(平成23)年3月にリニューアルオープンした浜松市博物館では、原始時代から近現代までの浜松の歴史を見ることができます。家康とは関係ないのではと思われるかもしれませんが、家康に関する資料も博物館内に展示されています。
博物館では実際に出土された土器などを触ることができ、貴重な体験となります。一つひとつじっくりと見ていくとあっという間に時間が過ぎてしまいました。
また、蜆塚公園内に博物館があるので、遺跡なども合わせて見学したり、散歩したりするのもお薦めです。
太刀洗の池 【MAP】
太刀洗の池は浜松医療センターの前にあります。浜松市博物館からは、長い坂を徒歩約6分ほど下っていきます。ここは家康の正室である築山御前を殺害した際に、太刀に付いた血を池で洗ったところとして伝えられています。
現在、そこにあるのは史跡碑のみとなっており、池があった面影は感じられませんでした。
駐車場横にぽつんと史跡碑があるのですが、まわりはちょっとした庭のようになっています。
現在では病院や駐車場、住宅などが建ち並ぶ場所ですが、築山御前が殺害された当時、この周辺はもっと寂しい場所だったようです。
身近にある歴史
何気なく通る道や、何気なく見ているものにも歴史の物語が隠れていました。
戦争や時代の移り変わりによって、当時のままの状態で残っているものはとても少ないですが、当時はどのような風景だったのかといったことを思い浮かべながら見てみるのもいいかもしれません。