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旧浜松
- ~794年(飛鳥以前、飛鳥、奈良)
- 794年~1335年(平安、鎌倉)
- 1336年~1603年(南北朝、室町、安土桃山)
- 1603年~1716年(江戸(前期))
- 1717年~1836年(江戸(中期))
- 1837年~1867年(江戸(後期))
- 1868年~1893年(明治(前期))
- 1894年~1912年(明治(後期))
- 1912年~1926年(大正)
- 1926年~1937年(昭和(戦前前期))
- 1937年~1945年(昭和(戦前後期))
- 1945年~1956年(昭和(戦後前期))
- 1957年~1972年(昭和(戦後中期))
- 1973年~1989年(昭和(戦後後期))
- 1989年~(平成)
1717年~1836年(江戸(中期))
西暦 | 年号 | |
---|---|---|
1717 | 享保2 | 風雨、寺嶋八幡地の大豆・木綿不作 |
1717 | 享保2 | 本坂道の通行を停止する |
1717 | 享保2 | 浜松町民、鴨江観音堂の地築に奉仕する |
1718 | 享保3 | 塩町と和田村との間に紛争がおきる |
1718 | 享保3 | (閏)10琉球人使節、浜松宿に泊る |
1718 | 享保3 | 塩町の塩専売権につき裁定がくだる |
1718 | 享保3 | 鴨江観音堂、再建落成する |
1719 | 享保4 | 朝鮮人賀使、、浜松宿に泊る |
1719 | 享保4 | 荒井湊の廻船、鳥島に漂着する |
1719 | 享保4 | 国領組53ヵ村の人口1万4,562人のうち男女の出人合計3,843人に達する |
1719 | 享保4 | 法源、上大瀬村に実相庵を開く |
1720 | 享保5 | 杉浦国頭・柳瀬方塾など月並歌会をひらく(宝暦3年ごろまでつづけられる)11真淵はじめて出席する |
1721 | 享保6 | 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作 |
1721 | 享保6 | 浜松宿役人、本坂道・鳳来寺道の道筋について答申する |
1722 | 享保7 | 柳瀬方塾、荷田春満を迎え、自宅に歌会をひらく、国頭ら10人が出席する、この年真淵はじめて春満にあう |
1722 | 享保7 | 山城国宇治三宝院、馬込村の修験者に法事は山伏中間で執行するよう指令する |
1722 | 享保7 | 松平資訓、資俊を継ぎ浜松城主となる |
1723 | 享保8 | 七軒町と上新町の境に、巡礼供養碑ができる |
1723 | 享保8 | 真淵、国頭とともに駿河沼津浅間宮奉納百首歌に出詠する |
1724 | 享保9 | 国頭・方塾ら11人、万斛村甘露寺で梅見の歌会をひらく |
1724 | 享保9 | 七軒町普大寺不動尊の開帳が行なわれる |
1724 | 享保9 | 国頭・方塾ら9人、蒲神明宮において「社頭松」の題詠歌会をひらく |
1724 | 享保9 | 浜松の宿吟味する |
1724 | 享保9 | 西遠地方、木綿豊作 |
1725 | 享保10 | 茶壼道中、浜松宿に泊る |
1725 | 享保10 | 定助郷・大助郷の区別を廃止する |
1725 | 享保10 | 賀茂真淵、浜松宿本陣梅谷の婿養子となる |
1726 | 享保11 | 五嶋新田開拓、水路の源太夫堀が竣工する |
1726 | 享保11 | 浅田・伊場・若林村地域に新堀ができる |
1726 | 享保11 | 西遠地方、木綿豊作 |
1727 | 享保12 | 国頭・方塾ら13人、竜禅寺で詩歌の会をひらく |
1727 | 享保12 | 茶壼道中、浜松宿に泊る |
1727 | 享保12 | 服部保庵没する |
1728 | 享保13 | 馬込川氾濫、板屋町・田町一帯が冠水する |
1728 | 享保13 | 浜松宿質屋業者、業者間の規約を定める |
1728 | 享保13 | この年、浜松宿質屋21軒 |
1728 | 享保13 | 杉浦国頭、百人一首の講義をおこなう |
1729 | 享保14 | 大象が浜松を通過し、見物人で賑わう |
1729 | 享保14 | 国頭・方塾・春隅栖(真淵)ら8人、佐鳴湖西岸の臨江寺で月見の歌会をひらく |
1729 | 享保14 | 塩町商人と気賀町衆との間に紛争がおきる |
1729 | 享保14 | 法源、遠州を去る |
1729 | 享保14 | 松平資訓、三河吉田へ転封となる |
1729 | 享保14 | 松平(大河内)信祝、三河吉田より入府、浜松城主となる |
1729 | 享保14 | 杉浦国頭、百人一首の講義をおこなう |
1730 | 享保15 | 松平信祝、老中職となる |
1730 | 享保15 | 抜けまいり流行、気賀関所の命により都田村民沿道を警戒する |
1730 | 享保15 | 旧浜松城主松平資訓、浜松秋葉社へ灯籠を寄進する |
1732 | 享保17 | (閏)5真淵の父岡部政信(宗閑居士)没する |
1733 | 享保18 | 真渕、上京して春満に学ぶ |
1733 | 享保18 | 都田川破堤、上都田・下都田の両村、修理を歎願する |
1734 | 享保19 | 馬込川出水、板屋町・田町・早馬町一帯に濁流が及ぶ |
1734 | 享保19 | 浜松において尽敬皇帝千年祭式を挙行する |
1734 | 享保19 | 杉浦国頭、浜松を中心とした遠江の神官たちに日本書紀の講義をおこなう |
1734 | 享保19 | 上都田・下都田の両村、年貢の小割に遅れ、咎めをうける |
1735 | 享保20 | 浜松藩、目安箱を採用する |
1735 | 享保年間 | このころから鴨江観音堂の彼岸会が賑わうという |
1736 | 元文1 | 志都呂松平領、上都田村・下都田村・笠井新田村・志都呂村の庄屋、志都呂陣屋に捕らえる |
1737 | 元文2 | 賀茂真淵はじめて江戸に出る |
1739 | 元文4 | 塩町と馬郡村との間に紛争がおきる |
1739 | 元文4 | 柳瀬方塾、江戸に出て和歌を講ずる |
1740 | 元文5 | 杉浦国頭「日本書紀神代巻講義」13巻を著わす |
1740 | 元文5 | 柳瀬方塾没する |
1740 | 元文5 | 杉浦国頭没する |
1740 | 元文5 | 馬淵、浜松に帰省、このときの紀行を「岡部日記」という |
1740 | 元文5 | 内山真竜、豊田郡大谷町で生まれる |
1741 | 寛保1 | 浜松惣町町屋敷の検地をする |
1741 | 寛保1 | 東金折村と老間村との間に水論が生ずる |
1742 | 寛保2 | 賀茂真淵『万葉集遠江歌考』著す |
1743 | 寛保3 | 奈川新田の検地をする |
1744 | 延享1 | 米津浜に大漁があがり、人魚という評判がたつ |
1744 | 延享1 | 松平信祝、没する(老中在職)、信復浜松城主となる |
1744 | 延享1 | 弥助新田を開発する |
1745 | 延享2 | 真淵、浜松に帰省、このときの紀行を「後の岡部日記」という |
1745 | 延享2 | 三方原において無断集会を禁ずる |
1745 | 延享2 | 浜松付近の寺院、鴨江寺において出開帳をする |
1746 | 延享3 | 舞阪村、鰹一本288文の割で鰹釣船運上を上納する |
1746 | 延享3 | 真淵、田安宗武に和学御用を仰せつけられる |
1746 | 延享3 | 国満、尽敬会を開催し「日本書紀」の講義をする(翌4年も開かれる) |
1747 | 延享4 | 村櫛村火事、102軒焼失する |
1747 | 延享4 | 夏、庄内方面早魃、百姓困窮する |
1747 | 延享4 | 浜名湖藻草を採取し、厳罰をうける |
1747 | 延享4 | 船越渡船と馬籠渡船の相違について、幕府へ答申する |
1747 | 延享4 | 肴町商人、由緒書を提出する |
1748 | 寛延1 | 蒲神明神官蒲清兼没する |
1748 | 寛延1 | 庄内方面、早魃、米・木綿豊作 |
1748 | 寛延1 | 琉球人使節、浜松宿に泊る |
1749 | 寛延2 | 松平信復、三河吉田へ転封となる |
1749 | 寛延2 | 松平(本庄)資訓、三河吉田より入府、浜松城主となる |
1749 | 寛延2 | 庄内方面、大暑木綿半気 |
1749 | 寛延2 | 安間村と安間川下の井組21ヵ村との間に水論がおきる |
1749 | 寛延2 | 真淵、「万葉解」を著わす |
1750 | 寛延3 | 入野村に「青面金剛塔」建つ |
1750 | 寛延3 | 喜多嶋村、柑子を献上する |
1751 | 宝暦1 | 篠原村漁民、入野川で鳥浦を行ない、紛争がおきる |
1752 | 宝暦2 | 森暉昌没する |
1752 | 宝暦2 | 安間新田普伝院に千体堂ができる |
1752 | 宝暦2 | 松平資昌、資訓を継ぎ浜松城主となる |
1752 | 宝暦2 | 浜松藩、遠州大念仏を禁止する |
1753 | 宝暦3 | 教興寺住職其上人没する |
1754 | 宝暦4 | 杉浦真崎没する |
1754 | 宝暦4 | 浜松宿の有馬が減少、助郷村から雇馬30疋補う |
1756 | 宝暦6 | 俳人太田巴静の笠塚ができる |
1757 | 宝暦7 | 早出村、村方諸人用割合帳を記帳する |
1758 | 宝暦8 | 松平資昌、丹後宮津へ転封となる |
1758 | 宝暦8 | 井上正経、京都所司代より浜松城主となる |
1758 | 宝暦8 | 浜松藩、遠州大念仏を禁止する |
1758 | 宝暦8 | 白隠、高塚村地蔵院に滞在する |
1759 | 宝暦9 | 浜松町奉行川原甚左衛門、浜松宿各町役人に命じ、町別に調書を提出させる |
1759 | 宝暦9 | 浜松宿総戸数1,698戸 |
1759 | 宝暦9 | 井上藩、遠州大念仏を禁止する |
1759 | 宝暦9 | 白隠禅師の「八重葎(やえむぐら)」板行される |
1760 | 宝暦10 | 真淵、隠居を許され、その後も田安家の和学御用を仰せつけられる |
1760 | 宝暦10 | 浜松城主井上正経、老中となる |
1760 | 宝暦10 | 浜松領内の木綿製品の幅尺を規制する |
1760 | 宝暦10 | 井上藩、遠州大念仏を禁止する |
1760 | 宝暦10 | 賀茂真淵が「万葉考」を著す |
1762 | 宝暦12 | 大沢領堀江村漁民、禁猟の内浦で鯐を捕獲し、領主に詫状を入れる |
1762 | 宝暦12 | 松嶋村の五右衛門家、浜松藩の年貢米の江戸廻送御用を命ぜられる |
1763 | 宝暦13 | 真淵、大和に旅する、伊勢松坂において本居宣長に逢う |
1763 | 宝暦13 | 浜松城主井上正経、老中職を退く |
1764 | 明和1 | 本居宣長、真淵に入門の礼をとる |
1764 | 明和1 | 朝鮮人賀使、浜松宿に泊る |
1764 | 明和1 | 琉球人使節、浜松宿に泊る |
1764 | 明和1 | 本坂道、道中奉行の支配となる |
1764 | 明和1 | 石塚竜麿、敷智郡細田村に生まれる |
1765 | 明和2 | 滝沢村と川名村の境界争いが解決する |
1766 | 明和3 | 杉浦国満没する |
1766 | 明和3 | 井上正定、正経を継ぎ浜松城主となる |
1766 | 明和3 | 新居町方面にお鍬祭が流行する |
1766 | 明和3 | 杉浦国満の長男管満、父の職を継いで諏訪社の大祝となる |
1766 | 明和3 | 賀茂真淵「万葉集竹取翁歌解」を著す |
1767 | 明和4 | 都田村方面において鍬祭が流行する |
1768 | 明和5 | 俳人橋爪理交没する |
1768 | 明和5 | 志都呂松平領、上都田村・下都田村の村民、江戸表へ越訴を企だて捕えられる |
1769 | 明和6 | 賀茂真淵没する |
1769 | 明和6 | 高林方朗、長上郡有玉村に生まれる |
1771 | 明和8 | 薬師村庄屋は打首、永田村庄屋は永牢の刑をうける |
1771 | 明和8 | 入野村・志都呂村方面にお鍬祭が流行する |
1771 | 明和年間 | 浜松齢松寺の住持、本山東本願寺の命により、遠州の奥山に本山の棟木をさがす |
1772 | 安永1 | 紺屋町から出火、連尺・神明・田町・板屋方面延焼する |
1772 | 安永1 | 浜名湖大潮、宇布見村300戸被害うける |
1773 | 安永2 | 普明、大雄庵に入る |
1773 | 安永2 | 米津村に難破船漂着、抜荷の冤罪で村民罰せられる |
1775 | 安永4 | 渡辺蒙庵没する |
1775 | 安永4 | 浜松医官永井篤士祐、賀川玄迪の「産論翼」を出版する |
1776 | 安永5 | 若宮八幡社に大工町氏子中、湯釜を寄進する |
1777 | 安永6 | 上之郷ほか2ヵ村、船越一色村地先の馬込川から水を引く |
1777 | 安永6 | 浜松付近の寺院、鴨江寺において出開帳をする |
1780 | 安永9 | 俳人五升庵蝶夢、浜松・浜名湖を歴遊する |
1781 | 天明1 | 高林方朗、内山真竜に入門 |
1783 | 天明3 | 春俳人松露庵鳥明、遠江に来遊する |
1784 | 天明4 | 鍛冶町浄鏡院が焼ける |
1784 | 天明4 | 浜松北部方面に騒動がおこり、小松村・芝本村・万斛村で襲撃事件がおきる |
1786 | 天明6 | 内山真竜、門人らを従え出雲に旅行するこのときの紀行を「出雲日記」という |
1786 | 天明6 | 笠井村に暴動がおき、二俣村方面へ波及する |
1786 | 天明6 | 春の末、俳人五升庵蝶夢、佐鳴湖・浜名湖を歴遊する |
1786 | 天明6 | 井上正甫、正定を継ぎ浜松城主となる |
1786 | 天明6 | 浜松宿の問屋会所、一ヵ所となる |
1786 | 天明6 | 志都呂松平領、都田村不作、減免を歎願し、首謀者処罰をうける |
1786 | 天明6 | 石塚竜麿・内山真竜に入門する |
1787 | 天明7 | 宇布見村方面、米価一升185文となる |
1787 | 天明7 | 浜松凧揚げの記録 |
1788 | 天明8 | 俳人五升庵蝶夢、浜松蓮華寺に泊る |
1788 | 天明8 | 齢松寺(れいしょうじ)檀徒一行が東本願寺再建の用材調査のため北遠へ |
1789 | 寛政1 | 天竜川、中野町村で決潰する |
1789 | 寛政1 | 石塚竜麿、本居宣長に入門する |
1789 | 寛政1 | 高林方朗、本居宣長に入門する |
1789 | 寛政1 | 和算書「神壁算法」出版される |
1790 | 寛政2 | 琉球人使節、浜松宿に泊る |
1790 | 寛政2 | 村櫛村漁民、他領の佐浜村へ藻を売り、咎めをうける |
1790 | 寛政2 | 俳人竹村方壺、蝶夢の句碑を臨江寺に建てる |
1790 | 寛政2 | 普大寺境内に芭蕉の句碑建てられる |
1796 | 寛政8 | 森繁子没する |
1796 | 寛政8 | 俳人竹村方壺没する |
1797 | 寛政9 | 「浜の松風」出版される |
1798 | 寛政10 | 浜松城二の丸で年頭祝儀の儀式、11人の諸職頭が出席する |
1798 | 寛政10 | 内山真竜、「遠江国風土記伝」を著わす |
1798 | 寛政10 | 服部管雄、駿河島田の服部家へ養子となる |
1798 | 寛政10 | 夏目甕麿、本居宣長に入門する |
1799 | 寛政11 | 松嶋村に小作争議、5人逮捕、江戸送りとなる |
1799 | 寛政11 | 紀州船、松嶋村海岸に漂着、村民罰せられる |
1799 | 寛政11 | 木舟村和泉屋の永代帳の記帳はじまる |
1800 | 寛政12 | 小沢衆甫没する |
1800 | 寛政12 | 藻草取場出入、裁許証文がでる |
1801 | 享和1 | 竜麿・方朗・甕麿・尚規・元尚、近畿旅行に出る |
1801 | 享和1 | 太田南畝、浜松旅籠町に泊る、その著「改元紀行」に、城下の賑わいを記す |
1801 | 享和1 | 竹村尚規、本居宣長に入門する |
1801 | 享和1 | 真淵33年祭・宣長追悼会を見付鈴木本陣宅でおこなう |
1801 | 享和1 | 山本源吉、碁客服部因徹と対局する |
1803 | 享和3 | 伊能忠敬、浜松に泊まり、遠州海岸を測量する |
1803 | 享和3 | 本坂道普請見分をする |
1803 | 享和3 | 船越一色村地先馬込川が渋滞し、川下各村の苦情生じ、芦などを刈り払う |
1805 | 文化2 | 肴町商人と西嶋村漁民との間に訴訟が起きる |
1805 | 文化2 | 伊能忠敬、入野村に泊まり、富士山・浜名湖・佐鳴湖などを測量する |
1805 | 文化2 | 村尾元融生まれる |
1805 | 文化2 | 本居大平、入野村竹村尚規家に数日滞在する |
1805 | 文化2 | 下飯田用水組合が井組21ヵ村によって創設される |
1806 | 文化3 | 俳人百洲(池田庄三郎)没する |
1807 | 文化4 | 井上藩、領内の凧揚げを規制する |
1807 | 文化4 | 楚州、大雄庵八代となる |
1808 | 文化5 | 馬目玄鶴没する |
1808 | 文化5 | 笠井村、火災 |
1809 | 文化6 | 小沢渡村民、難破した紀州船を救助する |
1810 | 文化7 | 西大塚村と長十郎新田との間に境界争が起きる |
1811 | 文化8 | 竹村尚規没する |
1811 | 文化8 | 杉浦管満没する |
1811 | 文化8 | 山本源吉「方円軌範」を著す |
1812 | 文化9 | 市野村火災12件焼失する |
1812 | 文化9 | 成子坂町、浜松秋葉社へ灯籠を寄進する |
1813 | 文化10 | 宣長13年祭を方朗宅でおこなう |
1814 | 文化11 | 竜禅寺観音堂の吊鐘鋳造、落成で賑わう |
1814 | 文化11 | 浜松に疱瘡が流行する |
1815 | 文化12 | 入野村方面に高機が使用される |
1816 | 文化13 | 天竜川の洪水による凶作のため、29ヵ村の小作人が減租を要求する |
1816 | 文化13 | 秋、俳書「遠津安布美句集」出版される |
1816 | 文化13 | 下堀村の木綿作付面積84%に達する |
1816 | 文化13 | 入野村方面、綿打に唐弓を用いる |
1817 | 文化14 | 宣長17年祭を浜松梅谷本陣宅でおこなう |
1817 | 文化14 | 浜松城主井上正甫の所替中止を領民が歎願する |
1817 | 文化14 | 水野忠邦、肥前唐津より入府、浜松城主となる |
1817 | 文化14 | 井上正甫、陸奥棚倉へ転封となる |
1817 | 文化14 | 水野家家臣275件 |
1817 | 文化14 | 高林方朗、鈴屋大人17年霊祭記録「須受武之」を編集する |
1817 | 文化年間 | 浜松宿総戸数1,710戸 |
1817 | 文化年間 | 天竜川を、川西の村々が横越をしたとして、池田村との間に紛争がおきる |
1818 | 文政1 | 井上氏浜松城を水野氏に引き渡す |
1818 | 文政1 | 俳人酔春亭左光(内藤彦端)没する |
1818 | 文政1 | 真淵50年祭を浜松梅谷本陣宅でおこなう |
1818 | 文政1 | 遠江天宮村中村乗高、「事実証談」を著す |
1819 | 文政2 | 旅籠町・伝馬町の旅籠屋、維持困難のため救方を嘆願する |
1819 | 文政2 | 舞坂の海苔の製造はじまる |
1819 | 文政2 | 笠井村、火災 |
1819 | 文政2 | この年、倹約取締令を公布する |
1819 | 文政2 | 村尾元融、江戸へ出て朝川善庵に入門する |
1820 | 文政3 | 水野藩、天竜川河口の駒場村・藤木村を浜松藩に編入しようとする |
1820 | 文政3 | 秋葉山村々の常夜灯、このころから雨覆となる |
1820 | 文政3 | 岩水寺村の石灰焼がはじまる |
1821 | 文政4 | 夏目甕麿、郷里白須賀を去り、摂津国昆陽の里に住む |
1821 | 文政4 | 内山真竜没する |
1821 | 文政4 | 浜松藩、馬込川の浚渫を松嶋村ほか3ヵ村に命ずる |
1821 | 文政4 | 忠邦、祖先忠元の廟を浜松城内に建立する |
1821 | 文政4 | 松島茂岡、「有馬紀行」を草する |
1821 | 文政4 | 遠州織物産業の母、小山みい現本郷町に誕生 |
1822 | 文政5 | 夏目甕麿(みかまろ)没する |
1822 | 文政5 | 浜松城鉄門の東櫓を修理する |
1822 | 文政5 | 小池村と早出村ほか10ヵ村井堰組合との間に水論がおきる |
1822 | 文政5 | 俳人吉田徐生没する |
1823 | 文政6 | 石塚竜麿(たつまろ)没する |
1823 | 文政6 | 一神六霊祭を見付鈴木本陣宅でおこなう |
1823 | 文政6 | 浜松宿新町の越川屋藤助、秤を改作し、中泉代官所に咎められる |
1825 | 文政8 | 忠邦浜松に逗留する |
1825 | 文政8 | 忠邦、藩財政の改革を勝手方に令達する |
1825 | 文政8 | 忠邦、海防にそなえ天竜川河口を視察する |
1825 | 文政8 | 山本源吉没する |
1825 | 文政8 | 三方原半僧坊道に馬頭観音石仏建立 |
1825 | 文政8 | 囲碁界の鬼才、山本源吉没 |
1826 | 文政9 | 忠邦、遠州長上・豊田・山名郡内のうち1万5千石収公され、代知を摂津・河内・播麿の代官支配地および大名預所において与えられる |
1826 | 文政9 | 異国船、遠江住吉沖に漂着する。忠邦大中瀬村に警固の人数を派遣する |
1826 | 文政9 | 浜松宿、無役町の七軒町・新町を加え、6か町を御役助町に指定しようとする |
1826 | 文政9 | 笠井村、155戸、653人 |
1826 | 文政9 | 忠邦、京都所司代となり、侍従に任ぜられる |
1826 | 文政9 | 忠邦、家中に対し国益計画の上伸を指令する |
1827 | 文政10 | 豊田郡山中村(天竜市)地内へ、秋葉山越接待茶屋および灯籠1対建立につき勧化寄進方を願い出る |
1827 | 文政10 | 浜松領民、忠邦の老中昇任を祈願する |
1827 | 文政10 | このころ入野村に綿打屋ができる |
1827 | 文政10 | 足立双松生まれる |
1828 | 文政11 | 高林方朗、杉浦本陣で水野忠邦から「人麿神像」を下賜される |
1828 | 文政11 | 忠邦、西丸老中に昇進する |
1829 | 文政12 | 伝馬町熊野屋より出火、後道へ延焼して本陣他150軒余焼失する |
1829 | 文政12 | 忠邦、浜松城・浜松本陣に逗留する |
1829 | 文政12 | 志都呂村前通の新提建設のため水腐ができ、西鴨江村近隣12ヵ村これが取払を要求、紛争を生じる |
1830 | 天保1 | 忠邦、大坂在勤中の替地1万5千石を収公され、代知を文政9年以前の旧領にもどされる |
1830 | 天保1 | 三ヶ日方面に、浜名おかげさわぎおこる |
1830 | 天保1 | 広重、浜松に泊り、町の繁昌を記す |
1830 | 天保1 | 岡村義昌、井上藩士岡村義理の次男として生まれる |
1830 | 天保1 | 市野村、市野宿の現状を道中奉行へ報告する |
1831 | 天保2 | 忠邦、遠州領のうち6,690石余を同国にて替地を命ぜられる |
1831 | 天保2 | 安間川築提につき、半場村と上流6ヵ村との間に紛争おきる |
1831 | 天保2 | 都田村方面の村々、お蔭まいりの施行をする |
1831 | 天保2 | 竜禅寺村糀屋衆と常光村との間に紛争がおきる |
1831 | 天保2 | 気候不順 |
1832 | 天保3 | 霰をまじえた雷鳴おこる |
1832 | 天保3 | 早魃がつづく |
1832 | 天保3 | 金原明善出生 |
1833 | 天保4 | 忠邦、県居霊社の碑文を毫揮する |
1833 | 天保4 | 三方原入会権につき、大沢領倉松村と入会村の新橋村組合6ヵ村との間に紛争がおきる |
1833 | 天保4 | 高林方朗、森繁子の歌集「玉かしわ」を編集する |
1833 | 天保4 | 蝗のため稲作に被害がある |
1833 | 天保4 | 田尻村、廻漕業の権利復活運動をおこす |
1833 | 天保4 | 有玉下村の木綿作付面積77%に達する |
1834 | 天保5 | 水野藩家中、三方原の和地山で鹿狩をする |
1834 | 天保5 | 鳥羽村・白鳥村で争議おこる |
1834 | 天保5 | 穀物の他領への販売を禁止する |
1834 | 天保5 | 忠邦、本丸老中に昇進し、御勝手御用を兼任する |
1834 | 天保5 | 米価騰貴 |
1835 | 天保6 | 有玉下村洪水 |
1835 | 天保6 | 鍛冶町より出火、伝馬町ほか5か町延焼する |
1835 | 天保6 | 高林村で争議おこる |
1835 | 天保6 | 水野藩、掛塚湊の廻船業者に「番抜出帆」を拒絶される |
1835 | 天保6 | 竜禅寺村糀屋衆と中野町村との間に紛争がおきる |
1835 | 天保6~7 | 入野村方面に織屋ができる |
1836 | 天保7 | 大風雨のため天竜川、富田村付近で破堤する |
1836 | 天保7 | 浜松宿の増助郷として、35ヵ村を指定する |
1836 | 天保7 | 新源太夫堀竣成する |
1836 | 天保7 | 馬込川の浚渫を行う |
1836 | 天保7 | この年、ことのほか冷年、3月ごろから雨天つづく |
1836 | 天保7 | 前年の火災によりこの年から同12年までの5か年間、浜松宿の余荷勤村を指定する |