年表から調べる
旧浜松
- ~794年(飛鳥以前、飛鳥、奈良)
- 794年~1335年(平安、鎌倉)
- 1336年~1603年(南北朝、室町、安土桃山)
- 1603年~1716年(江戸(前期))
- 1717年~1836年(江戸(中期))
- 1837年~1867年(江戸(後期))
- 1868年~1893年(明治(前期))
- 1894年~1912年(明治(後期))
- 1912年~1926年(大正)
- 1926年~1937年(昭和(戦前前期))
- 1937年~1945年(昭和(戦前後期))
- 1945年~1956年(昭和(戦後前期))
- 1957年~1972年(昭和(戦後中期))
- 1973年~1989年(昭和(戦後後期))
- 1989年~(平成)
794年~1335年(平安、鎌倉)
西暦 | 年号 | |
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797 | 延暦16 | 遠江・駿河などの諸国から雇夫を徴発し、平安京の造営に従事させる |
802 | 延暦21 | 遠江・駿河・伊豆ほか28か国の損田の租税を免ずる(日本逸史) |
803 | 延暦22 | テスト |
806 | 大同1 | 龍禅寺町の龍禅寺開創 |
810 | 弘仁1 | 遠江国の飢饉を救う |
810 | 弘仁1 | 舘山寺が真言宗寺院として開創される |
819 | 弘仁10 | 遠江国の国分寺、焼失する(日本逸史) |
820 | 弘仁11 | 遠江・駿河両国在住の新羅人700人が暴動を起こしたので兵を出して鎮圧する |
823 | 弘仁14 | 遠江国の早害疫病を救う |
833 | 天長10 | 遠江国の飢饉を救う |
834 | 承和1 | 遠江国敷智郡古荒田33町を阿保親王に賜う(続日本後紀) |
838 | 承和5 | 遠江に米華が降る(続日本後紀) |
842 | 承和9 | 橘逸勢、遠江国坂築駅で病死する |
843 | 承和10 | 遠江国浜名郡猪鼻駅家を復興する |
850 | 嘉祥3 | 浜名湖に一口があり、閉鎖常なく、湖の口がふさがると水害を受け、口が開くと豊作となる。湖口にまつる角避比古神を官社に列する |
852 | 仁寿2 | 遠江国敷智郡息神に従五位下を授け官社に列する |
853 | 仁寿3 | 広瀬河の郵船に2艘を加え4艘とする |
854 | 斉衡1 | 遠江に詔して剰田7町を尼妙長に施す(文徳実録) |
862 | 貞観4 | 遠江国敷智郡曾許乃御立神・賀久留神に従五位下を授ける |
862 | 貞観4 | 遠江国浜名橋を修造する |
863 | 貞観5 | 遠江国頭陀寺を定額寺とする |
864 | 貞観6 | 内蔵寮領遠江国長上郡の田地164町(市野庄)を貞観寺に施入する |
864 | 貞観6 | 富士山噴火する(三代実録) |
865 | 貞観7 | 内蔵寮領遠江国長下郡の水田12町(高家庄)を貞観寺に施入する |
865 | 貞観7 | 遠江国長上郡の空閑地を貞観寺に施入する |
872 | 偵観14 | 遠江国の兵庫、鼓を打つような音を出して鳴る |
873 | 貞観15 | 引佐・長上両郡の百姓に1年間調庸雑徭を全免する |
874 | 貞観16 | 遠江国敷智郡蒲大神に従五位下を授ける |
878 | 元慶2 | 藤原朝臣清保、遠江守に任ぜられる |
878 | 元慶2 | 出羽国の俘因の乱に、東海・東山両道の諸国に勇者の待機が命ぜられて、遠江国には10人が割りあてられる |
879 | 元慶3 | 遠江国など10か国の国司の言上した損田数が不正確の旨指摘される |
881 | 元慶5 | 遠江国司よりの、前任の国司のとき官舎25宇倉104宇焼失したとの報告をみとめ、その修理を許す |
881 | 元慶5 | 遠江の稲2,000束を興福寺へ施入する(三大実録) |
881 | 元慶5 | 磐田郡を割いて山香郡を置く |
883 | 元慶7 | 遠江国などの穀500斛で東寺塔を造る(三大実録) |
883 | 元慶7 | 藤原清保、従五位上に進む |
884 | 元慶8 | 遠江国浜名橋を改めて作る、長56丈・高1丈6尺 |
884 | 元慶8 | 前遠江守藤原清保、その任中に稲42万束を貯蔵し飢餓にそなえたことが認められる |
885 | 仁和1 | 遠江国蓁原郡の百姓口分田が水害の為、代わりに不堪佃田を与える[口分田班給の最後] |
886 | 仁和2 | 藤原朝臣恒泉を遠江国に遣し野鳥の害を払う |
887 | 仁和3 | 藤原清保、遠江守に再任される |
890 | 寛平2 | 遠江検損使の勘定公文を所司に下させる(西宮記) |
894 | 寛平6 | 遠江・駿河などの諸国に、貴族の使いが往還の舟・車・人馬を強いて雇うことを禁ずる(太政官符) |
901 | 延喜1 | 勝諸明、菅原道真事件に連坐、遠江権掾に左遷される(政治要略) |
904 | 延喜4 | 平忠興、遠江守に任ぜられる(古今和歌集目録) |
927 | 延長5 | 「延喜式」完成、遠江国の駅名として引摩が記載。賀久留神社、津毛利神社なども記されている。 |
927 | 承平年間 | 源順「倭名類聚抄」を作る。はじめて浜松の名が記載される[流布本] |
931 | 承平1 | 「浜津(浜松)」の名称が文献に記載 |
940 | 天慶3 | 遠江国の飛駅使入京して、平将門が反乱を起し賊が駿河へ乱入し国分寺を襲った由を急報する |
995 | 長徳1 | 正暦2(991)から長徳1(995)まで遠江守であった源為憲、遠江国の衰弊を奏上する |
996 | 長徳2 | 四等官に各権官が置かれ、国司の定員が増える |
998 | 長徳4 | 税部宿弥興国、東宮の年給により遠江掾に任ぜられる |
998 | 長徳年間 | このころ、浜名橋は焼失 |
1000 | 長保2 | 京都東寺、遠江国封戸150戸の租庸調を銭に換算して収納する |
1017 | 寛仁1 | 浜名湖には黒木の橋がかかる[浜名橋] |
1020 | 寛仁4 | 更級日記の著者東海道を上る。浜名湖を舟で渡る |
1025 | 万寿2 | 笠井荘春日神社を再建する |
1080 | 承暦4 | 遠江守源基清、尾奈御厨・浜名本神戸田を刈り取り、神宮司より不法を訴えられる。尾奈御厨は寛徳2年(1045)以後の成立である |
1081 | 永保1 | 遠江国蒲御厨、荘園整理令(1069)により停止されている。このころ、都田御厨が成立している |
1082 | 永保2 | 遠江守基清、本神戸田を刈り取った罪により停任される |
1086 | 応徳3 | 院政開始 |
1102 | 康和4 | 遠江国東寺封戸、封物を絹に換算して納入する |
1102 | 康和4 | 遠江国司、蒲田御厨内の新開田に徴税を増し紛争を生ずる |
1104 | 長司1 | 遠江国東寺封戸、この年以降3か年封物の納入を怠る |
1104 | 長承年間 | 頭陀寺領川匂荘の東の界を定める |
1156 | 保元1 | 保元の乱。横地太郎長重・勝間田平三成長・井伊八郎は官軍(平清盛・源義朝)に参加する[遠江武士初見] |
1158 | 保元3 | 平重盛、遠江守に任ぜられる |
1159 | 平治1 | 平治の乱、遠江国の武士は源氏に協力していない |
1159 | 平治1 | 平宗盛、遠江守になる |
1160 | 永暦1 | 平基盛が、遠江権守である |
1160 | 永暦年間 | 京都新熊野神社へ遠江国羽鳥庄を寄進する |
1167 | 仁安2 | 大中臣公宣、先祖3代の領地都田御厨が、在庁官人の訴えにより停止されたのを歎き、その復活を言上する。都田御厨の成立は永保(1081)以前である |
1171 | 嘉応3 | 京都松尾社領池田荘と京都仁和寺観音堂の末寺の頭陀寺の寺領川匂荘とに紛争がおき、池田荘の四至膀示を定める |
1171 | 承安1 | 池田庄立券文が朝廷に提出 |
1172 | 承安2 | 遠江国司、都田御厨に乱妨する(玉葉) |
1173 | 承安3 | 最勝光院が建つ。このころからのち、村櫛荘は同院領となる |
1175 | 安元1 | 平頼盛、遠江権守となる |
1179 | 治承3 | 遠江国、藤原俊盛の知行国である |
1180 | 治承4 | 安田義定を遠江守護とする |
1180 | 治承4 | 頼朝鎌倉に入る。遠江国の武士横地・浅羽・相良・内田・井伊・勝間田の諸氏は、この当時反頼朝軍に参加する |
1180 | 治承4 | 鎌倉幕府成立(侍所を置く) |
1180 | 治承4 | 蒲惣検校源清成の蒲上下田畠を免除する(蒲神明宮文書) |
1181 | 養和1 | 遠江守護安田義定、平軍東上の急を頼朝に報告する |
1181 | 養和1 | 遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長ら安田義定の命により遠江橋本に防禦陣地を築く。浅羽庄司宗信・相良三郎は協力しないので処罰をしたが4これを許す |
1182 | 寿永1 | 安田義定、遠江国箇鎌田御厨を押領する |
1183 | 寿永2 | 安田義定、遠江守となる |
1183 | 寿永2 | 頼朝遠江にいたり、奥州秀衝の出軍を聞いて鎌倉へもどる(吾妻鏡) |
1184 | 寿永3 | 遠江国の住人内田三郎家吉、義仲の妾巴と一騎討をして討ち取られる |
1184 | 寿永3 | 頼朝、皇大神宮に都田御厨を保証する |
1184 | 寿永3 | 平重衝、池田宿の長者熊野の娘侍従のもとに宿る |
1185 | 文治1 | 頼朝、遠江の御家人が自由な行動をすることを禁止する |
1185 | 文治1 | 安田義定、遠江小杉御厨に対して乱妨する |
1185 | 文治1 | 幕府、東海道駅路の法を制定する |
1186 | 文治2 | 安田義定、義経の行方について遠江の山寺までさがしたが不明の旨を報告する。また遠州二俣山に向い鹿9頭を浅羽三郎等が射殺したことを報告する |
1186 | 文治2 | 頼朝、勝間田三郎成長が玄蕃助に任官したことを怒る |
1186 | 文治2 | 幕府、諸国の社寺の修造を朝廷に願い、東海道の守護に命じて破壊している社寺を報告させる |
1186 | 文治2 | 西行法師、東国方面に旅をする |
1187 | 文治3 | 鎌倉八幡宮放生会に三河守範頼・遠江守護で遠江守安田義定も参列する。五番射手的立を横地太郎長重がつとめる |
1187 | 文治3 | 安田義定、遠江守に重任される。その代償として伏見稲荷神社の修造を命ぜられる |
1188 | 文治4 | 安田義定、紀伊熊野山領の住民と国衙領の用水について争い刃傷する |
1188 | 文治4 | 六条殿造営のため遠江国に対して表の築垣と門の建造を割りあてる |
1189 | 文治5 | 遠江守護安田義定、奥州藤原氏征伐軍に参加する。浅羽五郎行長も参加する |
1190 | 建久1 | 安田義定、下総守に左遷される |
1190 | 建久1 | 頼朝、知行国の遠江を源義兼に与える。義兼は平親長を国守とする |
1190 | 建久1 | 遠江国に目代を派遣する |
1190 | 建久1 | 頼朝、京都円勝寺領の遠江雙侶荘地頭板垣兼信を配流し地頭職を改めよ、との命令を拒否する |
1190 | 建久1 | 頼朝上洛、橋本駅に泊る。遊女群参、連歌を詠む。帰路橋本・池田。縣川に泊る。遠江四郎・浅羽三郎・五郎・新野太郎・横地太郎、入洛の行列に参加する |
1191 | 建久2 | 安田義定、遠江守に三任される |
1191 | 建久2 | 池田御厨につき、松尾社と豊受大神宮との間に係争を生ずる |
1192 | 建久3 | 頼朝征夷大将軍に任ぜられる |
1193 | 建久4 | 源範頼、伊豆に送られ殺される |
1193 | 建久4 | 頼朝、安田義定の遠江国浅羽荘の地頭職を没収する |
1194 | 建久5 | 頼朝、安田義定を反逆の罪によって殺す |
1194 | 建久5 | 幕府、東海道に新宿を増置、駅夫の員数を定める |
1195 | 建久6 | 頼朝上洛、井伊介・横地太郎・勝間田玄蕃助・浅羽庄司三郎・新野太郎ら供奉する |
1195 | 建久6 | 頼朝、遠江国橋本駅で遠江国在庁官人と守護の部下を招集して国務と検断について指示を与える |
1195 | 建久6 | 遠江国の住人勝間田成長、国府光堂で騒動をおこし御家人の資格を失う |
1197 | 建久8 | 北条時政、源清成を蒲上下両郷地頭代職に補任する(蒲神明宮文書) |
1199 | 正治1 | 蒲御厨地頭職、将軍頼家の命によって停止される |
1200 | 正治2 | 幕府、頼朝の一周忌にあたり遠江・駿河・伊豆の寺院を修造させる |
1200 | 正治2 | 梶原景時、駿河狐崎で殺される |
1200 | 正治2 | 北条時政、遠江守となる |
1203 | 建仁3 | 高野山金剛寿院の年貢米を遠江頭陀寺荘から船で送る |
1203 | 建仁3 | 紀伊国の国衙、頭陀寺荘をふくむ高野山金剛峯寺領の年貢に対し、船所の書生や梶取が乱妨するのを禁じる |
1207 | 承元1 | 大中臣時定、大福寺を創建する(大福寺文書) |
1209 | 承元3 | 浜名神戸司大中時定、大福寺に浜名神戸内の北原御園を寄進する(大福寺文書) |
1210 | 承元4 | 幕府、駿河以西の駅家に夜警を命じ旅人の安全をはかる |
1221 | 承久3 | 遠江橋本宿で、遠江住人内田四郎・同六郎・新野右馬充など、幕軍に混入して上京しようとした筑井高重を三河宮路山の麓に討を取る |
1221 | 承久3 | 承久の乱。遠江国の御家人天野右衛門尉・相良三郎ら泰時の軍に従い5.28天竜河を徒渉する |
1221 | 承久3 | 前中納言宗行捕えられて遠江国菊川駅に宿る |
1221 | 承久3 | 藤原忠信、舞沢で許され、のち越後に流される(吾妻鏡) |
1223 | 貞応2 | 海道記の著者、橋本・池田・縣川駅に泊る |
1223 | 天福1 | 遠江但木神明社に源貞正・藤原真道・大家末時が掛仏を寄進する[浜名氏初見] |
1225 | 元仁2 | 信生法師、池田宿熊野の侍従に一泊をもとめ謝絶される |
1226 | 嘉禄2 | 遠江守佐原盛連、誅せられる |
1227 | 嘉禄3 | 法然の門人遠江国蓮華寺の禅勝坊、遠江国で隆寛とあい浄土宗の布教に尽くす(法然上人行状画図) |
1227 | 嘉禄3 | 北条時房、源吉祥子を蒲御厨上郷内の地頭代職に補任する(蒲神明宮文書) |
1227 | 安貞年間 | 桜が池と皇円の伝説、このころ成立する(静岡県史) |
1235 | 嘉禎1 | 東海道に群盗が出没する |
1238 | 暦仁1 | 将軍頼経上京、遠江守護条時房の命により横地長直奉公人となり縣川宿に御所を新造する。天竜河に浮橋をかけ供奉人は馬でわたる。縣川・池田・橋本に泊る |
1238 | 暦仁1 | 遠江国の御家人橘薩摩公業、肥前国長崎庄上村惣地頭職に補任される[新補地頭] |
1238 | 暦仁1 | このころ遠江守護は北条時房である |
1242 | 仁治3 | 東関紀行の著者、浜名橋を渡り、舞沢の原の観音堂に参詣し、天竜河出水のため難儀して越す |
1246 | 寛元4 | 前将軍頼経を京都に送りかえす。浜名左衛門三郎、供奉人をつとめる。縣川・池田・橋本に泊る(吾妻鏡) |
1250 | 建長2 | 遠江国住人の遠江清時・遠江時連が射手をつとめる(吾妻鏡) |
1251 | 建長3 | 将軍頼嗣に遠江の住人村櫛三郎兵衛尉そのほか遠江氏・浅羽氏などが供奉などをつとめる(吾妻鏡)[村櫛氏初見] |
1251 | 建長3 | 浜名三郎、鶴岡八幡宮放生会に参列する(吾妻鏡) |
1252 | 建長4 | 大仏朝直、遠江守護となる |
1252 | 建長4 | 宗尊親王鎌倉下向、遠江守護北条朝直が遠江国内の宿泊などにあたる。橋本・池田・菊川に泊る |
1252 | 建長4 | 蒲神明宮修造工事 |
1254 | 建長6 | 蒲御厨神明宮の造営につき、右衛門尉光康命により、蒲御厨政所出羽左衛門大夫・蒲検校に執達する |
1264 | 文永1 | 沙弥某、源清常を蒲御厨惣検校職に補任する(蒲神明宮文書) |
1264 | 文永1 | 弘長3年(1263)大風のため破損した蒲御厨神明社の造営をする |
1265 | 文永2 | 飛鳥井雅有、このころから6年7月ころ橋本の宿に泊る |
1268 | 文永5 | 敬意、頭陀寺に鍔口を寄進する |
1270 | 文永7 | 遠江国渕郡黍庄笠子郷橋本宿長者妙相、遠江応賀寺へ毘沙門天像を造立し、胎内へ願文を納める |
1272 | 文永9 | 源清常に蒲御厨検校免田畠を領知させる(蒲神明宮文書) |
1274 | 文永11 | 京都加茂社の片岡社領地頭職代官筑前局、地頭職を加茂社神主に譲る契約を履行しないので紛争を生じ、後深草上皇より加茂神主が知行相伝の旨、裁決をうける |
1275 | 建治1 | 飛鳥井雅有、引馬に泊る |
1277 | 建治3 | 十六夜日記の作者阿仏尼、引馬に泊る |
1277 | 建治~弘安 | このころ遠江守護は大仏宣時である |
1280 | 弘安3 | 朝廷、諸寺に異国降伏の祈祷を命令する |
1281 | 弘安4 | 浜名神戸司代官、大福寺内の検断を免除する(大福寺文書) |
1281 | 弘安4 | 幕府、左衛門尉通茂を遠江国飯田荘菅島・西俣・加保村などの地頭職にする |
1282 | 弘安5 | 幕府、遠江守北条為時を博多に遺す |
1283 | 弘安6 | 浜松荘より安嘉門院法事費用として15貫文を亀山上皇御所に納める |
1284 | 弘安7 | 浜名神戸の本所棚橋氏、預所の浜名香王に大福寺と真萱寺の本末の争いを停めるよう下知する(大福寺文書) |
1284 | 弘安7 | 蒲御厨所役に蒲神明社を造営させる |
1285 | 弘安8 | 源清行を蒲御厨検校職に補任する(蒲神明宮文書) |
1286 | 弘安9 | 幕府、遠江・佐渡の両国に酒販売禁止令の徹底を命令する |
1287 | 弘安10 | 源清行を蒲御厨広福寺別当職に補する(蒲神明宮文書) |
1288 | 弘安11 | 比々沢平四郎左衛門尉真家、比々沢地内の田地を大福寺に寄進する(大福寺文書) |
1288 | 弘安11 | 大福寺と真萱寺(摩訶耶寺)との本末の争いを、通海僧正が裁定する(大福寺文書) |
1290 | 正応3 | 神助近、田地を大福寺喜忍坊に売る(大福寺文書) |
1290 | 正応3 | 勧進僧永威、鴨江寺に洪鐘一口を寄進する |
1290 | 正応3 | 遠江守北条時定、鎮西で没す |
1291 | 正応4 | 幕府、全国の一宮と国分寺に異国降伏の祈祷をさせる |
1294 | 永仁2 | 遠江の人勝間田長清の宅を冷泉為相がたずねる |
1296 | 永仁4 | 西園寺公衝、浜松庄領家職を亀山上皇よりうける(亀山院御凶事記) |
1296 | 永仁4 | 浜松荘内宇間郷の年貢米、奈良西大寺に寄進する |
1303 | 嘉元1 | 蒲御厨神明社の造営をする |
1303 | 嘉元1 | 後宇多上皇、浜松庄内岡部郷の地頭職を改めて京都加茂社の片岡社に寄進される |
1303 | 嘉元1 | このころ頭陀寺は京都仁和寺観音院の末寺である |
1305 | 嘉元3 | 引佐郡気賀庄長楽寺の梵鐘を鋳る |
1305 | 嘉元3 | 亀山法皇薨去。このとき遠江国飯田荘などを後伏見上皇にゆずる |
1306 | 徳治1 | 後宇多上皇、遠江国宇多郷を昭慶門院にゆずる |
1309 | 延慶2 | 遠江守江間政俊没す |
1310 | 延慶3 | 市内滝沢町林慶寺蔵木造大日如来に胎内銘を墨書する |
1313 | 正和2 | 大福寺の仁王門を建造する(大福寺文書) |
1324 | 元亨4 | 幕府、武蔵金沢の称名寺にたいし天竜河などの架橋を命令する |
1324 | 元亨4 | 村櫛荘の年貢米100石は、このころ60石となり、同荘は東寺領となっている |
1326 | 嘉暦1 | 幕府、岡部郷地頭職を雑掌にわたすよう命令する |
1330 | 元徳2 | 幕府、村櫛荘伊左地郷の未納年貢の納入を雑掌に命じる |
1331 | 元弘1 | 日野俊基捕えられ鎌倉へ送られる途中、遠江菊川に泊る(太平記) |
1331 | 元弘1 | 後醍醐天皇、遠江犬居の天野周防七郎佐衛門経顕に知行地を保証される(天野文書) |
1331 | 元弘1 | 遠江守後北条陸奥守貞直、笠置山攻略。遠江の御家人も参加する |
1331 | 元弘1 | つづいて京都付近に転戦する |
1332 | 元弘2 | 永憲、遠江国村櫛荘和地村御坊(大山寺)で写経を行う |
1333 | 元弘3 | 鎌倉幕府滅亡、遠江犬居天野経顕およびその子経政、新田義貞に従い参戦する(天野文書) |
1333 | 元弘3 | 遠江の御家人八木秀清上京、足利尊氏の軍に参加する |
1333 | 元弘3 | 細川信氏、蒲総検校にたいし軍役を免除する(蒲神明宮文書) |
1333 | 元弘3 | 足利尊氏、伊豆三島宿に対し街道や宿で乱妨するのを禁止する |
1333 | 元弘3 | 遠江守護今川範国、鴨江寺の寺領を保証する |
1333 | 元弘3 | 後醍醐天皇、天野景広にその知行地を保証される(加茂前田家天野文書) |
1333 | 元弘年間 | 竜峯宏雲、遠江国相良郷に平田寺をひらく |
1334 | 建武1 | 今川範国、八幡宮領中泉郷を守護不入の地とする(秋鹿文書) |
1334 | 建武1 | 北条時行、足利高氏に攻められ橋本(新居町)で敗北 |
1335 | 建武2 | 天野経顕、範国に従い勢多に戦う(天野文書) |
1335 | 建武2 | 中先代の乱。今川範国、名越太郎邦を小夜の中山に討ち取る |
1335 | 建武2 | 尊氏、北条時行を橋本に敗る。遠江の兵も従う |
1335 | 建武2 | 新田義貞、足利直義を遠江の国府・匂坂に敗ったが12尊氏に敗れ天竜河の浮橋をそのままにして西走する |
1335 | 建武2 | 備後山内首藤通継、遠江国飯田荘加保村の地頭職を養子土用鶴丸にゆずる |
1335 | 建武2 | 足利直義、遠江国安間弥六・弥七・余一および吉良の2氏の旧領地(遠江国富士不入斗)を駿河浅間神社に寄進する |