賀茂真淵かものまぶち
誕生地 | 現:浜松市中区東伊場一丁目 |
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生年 | 1697(元禄10)年 |
没年 | 1769(明和6)年 |
賀茂真淵とは
国学四大人の一人。
『岡部日記』『万葉集遠江歌考』『冠辞考』『万葉考』など多くの著書を残している。
生涯
1697(元禄10)年3月4日、遠江国敷智郡浜松庄伊場村(現:浜松市中区東伊場一丁目)で賀茂神社の神官をつとめる岡部政信の子として生まれた。母は遠江国長上郡天王村の郷士竹山孫左衛門茂家の娘。
1707(宝永4)年、真淵が11歳の頃、諏訪神社の大祝杉浦国頭(すぎうらくにあきら)の妻である雅子(真崎)に手習いを教わるようになった。そして真崎の夫国頭にも和歌・古典を学ぶようになり、国頭が主催する和歌会などにも参加している。
1723(享保8)年、27歳のとき、岡部政長(父政信の甥)の娘と結婚。しかし、翌年9月4日には最愛の妻が病死してしまう。その悲しみは『岡部日記』にも記されている。
1725(享保10)年29歳のとき、父政信のすすめにより浜松本陣の梅谷家に婿入りし、2年後には真滋(ましげ)が生まれている。
父が他界すると、1733(享保18)年、37歳のときに伏見(現:京都)へ上って荷田春満(かだのあずままろ)について学問を学んだ。
1736(元文元)年4月浜松に帰省するが、その間に春満は他界してしまう。師を失った真淵は2度と伏見には戻らず、1737(元文2)年3月、真淵41歳のときに江戸へと出て古学を講じ、大成した。その後、八代将軍徳川吉宗の次男田安宗武(たやすむねたけ)に仕えた。
1760(宝暦10)年、真淵64歳のときに官職を退くと、古学の研究に専念し、1763(宝暦13)年には主君田安宗武の命を受け、万葉集や源氏物語の故地を訪ね歩いている。
1769(明和6)年10月30日に73年間の生涯に幕を閉じた。
真淵の遺跡
【誕生地(中区東伊場一丁目)】
雄踏街道に沿う生家は文政年間に焼失し、父与三郎の隠居宅が残っていたが、それも戦災で失われてしまった。現在は1981(昭和56)年に浜松市制施行70周年を記念して建てられた「賀茂真淵翁顕彰碑」があるのみ。
【賀茂神社(東伊場一丁目)】
伊場村は岡部郷といい京都の賀茂神社の神領だったので、そのゆかりで鎌倉時代に勧請。真淵の父岡部政信はこの社の神官。
【縣居(あがたい)神社(東伊場一丁目)】
1839(天保10)年に真淵の学統をつぐ有玉村(有玉南町)の高林方朗(たかばやしみちあきら)らによって賀茂神社境内に縣居翁霊社として建立、1884(明治17)年に縣居神社と改称され、1924(大正13)年社殿を現在地に移した。戦災により焼失したが、1984(昭和59)年に再建された。境内の「縣居翁霊社」の碑は浜松城主水野忠邦の書。
【賀茂真淵記念館(東伊場一丁目)】
1984(昭和59)年11月3日開館。
賀茂真淵や遠江の国学に関する資料を展示し、地域文化の向上を図ろうという目的で建設された。
著書『万葉集遠江歌考』
遠江を舞台にして詠まれた防人の歌や東歌など18首について考証しまとめたもの。1820(文政3)年夏目甕麿(なつめみかまろ)によって出版された。
もともと真淵が江戸に住むようになってから数年後、郷里浜松の門人から万葉集に遠江の歌が何首ほど入っているのか御教示いただきたいと問い合わせがあったことから始まる。真淵は改めて研究をすると18首あることがわかり、それを門人へ伝えた。それとは別にそれらの和歌について丹念な注釈をと考証を加え、草稿をまとめていたものが『万葉集遠江歌考』。真淵は以前から研究をまとめあげると草稿や副本を門人や友人に送っており、『万葉集遠江歌考』もまた、浜松宿の渡辺家に送ってあった。
1818(文政元)年、真淵の50年遠忌が浜松宿梅谷本陣において開催されたとき、出席した渡辺直之が自分の家に『万葉集遠江歌考』の草稿があることを披露した。そこで遠忌に集まった高林方朗、石塚竜麿(いしづかたつまろ)、夏目甕麿たちが通読したところ、遠江の万葉集を研究した貴重な労作であることがわかった。そして、夏目甕麿が出版することを約束し、出版された。
参考
『浜松の史跡』(浜松史跡調査顕彰会)
『浜松歴史散歩』(静岡新聞社)
『はままつ歴史発見』(静岡新聞社)
『賀茂真淵の話』(賀茂真淵翁遺徳顕彰会)
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