堀内勝治郎ほりうちかつじろう
誕生地 | 敷知郡馬郡村 |
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生年 | 1884(明治17)年 |
没年 | 1940(昭和15)年 |
堀内勝治郎とは
堀内勝治郎は、氷砂糖製法開発者(旭日氷糖株式会社創設)、国産初の写真用ロールフィルム開発者(旭日写真工業株式会社創設)。
生涯
堀内勝治郎は現在の馬郡町に誕生。
浜松中学校(現:浜松北高)を卒業後、父が創業した氷糖商会の仕事についた。
東京の大日本精糖株式会社と浜松の中村氷糖合資会社との合併、解散を経て、1924(大正13)年、勝治郎は旭日氷糖株式会社を新設。松島保平らの中村氷糖株式会社とライバル競争をしながら、氷糖産業を発展させていった。
特に、1915(大正4)年、結晶質の保温用燃料を瓦炭から蒸気に変える方法、さらに1933(昭和8)年に開発した「クリスタル法」という結晶作用を高める方法は、氷糖の製造効率を劇的に高めることになった。
勝治郎は氷糖産業のみならず、写真技術の発展にも寄与した。
1925(大正14)年勝治郎は東京で写真化学の研究をしていた小島正治をフィルム開発の研究者として浜松に招き、旭日写真工業を設立した。当事写真フィルムはすべて輸入品。勝治郎は小島とともに浅田町新川と馬込川の合流点近くの約3000坪の土地に工場を建て仕事を開始した。
そして1926(大正15)年4月、日本初の写真印画紙「ASK菊印A」を発売。
1927(昭和2)年には日本初のブロマイド紙「若葉」を発売。
そして1928(昭和3)年、国産ロールフィルム第一号の「菊フィルム」のベスト版(8枚続き)とブローニー版(6枚続き)を誕生させた。
さらに、1930(昭和5)年には、国産初のX線フィルム「ASKエッキスレーフィルム」を発売。
1938(昭和13)年には35ミリ映画汎フィルム、1939(昭和14)年には「菊UFクロームフィルム」を発売し、業界のパイオニアとして君臨した。
1940(昭和15)年死去後、企業整備例により、1944(昭和19)年、旭日氷糖株式会社、旭日写真工業株式会社は共に解散した。
参考
浜松産業史
遠州機械金属工業発展史
浜松といえば
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