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徳川家康 とくがわいえやす

誕生地 岡崎
生年 1542(天文12)年
没年 1616(元和2)年
三河で誕生

家康は1542(天文12)年12月岡崎城で、松平広忠と刈屋城主水野忠政の娘である於大(おだい)との間に誕生した。幼名は竹千代。父・広忠は水野氏と絶縁したため、母とも別れ別れになっていた6歳の竹千代は、義元の人質となる予定で駿河へむかう途中、田原で奪われ織田信秀のもとに送られた。しかし後に信秀の子供と交換条件で駿府の今川のもとへ行き、8歳から19歳までを過ごした。

 

織田とのかかわり

16歳で今川家の重臣関口刑部大輔義広の娘(築山御前)と結婚。

1560(永禄3)年今川義元が桶狭間で織田信長に攻められ戦死したとき、家康(松平元康と称していた)は義元の命を受けて名古屋の大高城を守っていた。義元の死で自立した家康は、1561(永祿4)年信長と同盟を結び、その後、家康の子である信康は信長の娘徳姫と5歳で婚約。松平・織田の同盟が強化された。

三河の統一を果たした家康は1566(永禄9)年に朝廷の許しを受けて徳川家康と改名した。

 

遠江進攻

1568(永禄11)年頃から遠江進攻が始まる。家康は菅沼定盈と、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時ら井伊谷三人衆に道案内をさせ、引佐奥山から方広寺を経て井伊谷に入り、さらに金指を経て橋羽(現:東区天竜川町)の妙恩寺に到着した。次いで家康は引馬城に入り、さらに懸川城も開城させ、堀江城(舘山寺)を攻撃させた。

1570(元亀元)年家康は信長を援け、姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り功績をあげた。同年、家康は引馬を浜松と改め、新しくつくった浜松城に入り、以後29歳から45歳を浜松で過ごした。 

1571(元亀2)年嫡子信康の元服祝いのため、浜松城では能楽が催されている。

1572(元亀3)年武田信玄が遠江・三河に侵入すると宣言し、青崩峠から犬居城(春野)に入り、只来(天竜)、二俣(天竜)、さらに天方、一宮、飯田(森町)~向笠(磐田)、各輪(掛川)から木原、西島(袋井)へ進んだ。家康も浜松から出馬して見付(磐田)から袋井方面へ向かい、一言坂の戦いがあった。続いて 同年12月22日に三方ケ原の戦いで、家康は姉川の戦いにつづく第二の大戦で惨敗。この戦いで家康は多くの教訓を得ることになった。 

1574(天正2)年家康は武田勝頼との連絡を絶たせるため、犬居城の天野景貫を攻めた。武田勝頼は高天神城を降伏させたが、家康が馬伏塚城(掛川市大須賀)を強化させたため衝突はなく勝頼は帰国した。 

同年家康の次子於義伊(おぎい)が誕生。生母の於万(おまん)の方は、家康夫人の築山御前に非道な折檻を受けたため、城外(宇布見の中村源左衛門正吉邸※)で生まれたという説と、安城市で生まれたという二つの説がある。※中村源左衛門正吉邸には1884(明治17)年建立の胞衣塚碑がある。 

1575(天正3)年三河長篠の戦いで武田勝頼が敗れ、家康の勢力が増大したが、遠江ではまだ家康に抵抗するものも多く、天竜川東の周智郡、小笠郡、榛原郡は武田方で、二俣城、犬居城、高天神城(小笠郡)はその拠点だった。そのため、家康は二俣城、光明寺城を攻め、二俣城は7ヶ月の籠城で食糧がつき開城した。 

1579(天正7)年、三子となる長丸(のちの秀忠)が浜松城で誕生したものの、長男信康が武田と謀反をはかったとの罪で信長から自害を命じられる。信康は21歳で切腹し二俣の清滝寺に葬られた。同年、家康の正室であり信康の母の築山御前も浜松へ来る途中に殺され、西来院に葬られた。

1580(天正8)年家康の四子忠吉と三女振姫が浜松城で誕生。 

1581(天正9)年高天神城(小笠郡)が陥落、1582(天正10)年には小山城(榛原郡吉田)も開城となり、家康は遠州全土を手中におさめることになった。これにより今川と武田との14年にわたる戦いが終結したといえる。同年家康は信長の命を受け、甲斐の武田勝頼を攻めてこれを滅ぼした。この結果、家康は三河・遠江・駿河を治めることになった。さらに同年、信長が本能寺の変で殺されると、家康はただちに武田の家臣団を吸収させ、このとき新たに加わった武田家臣に忠誠を誓わせた。このときの起請文は秋葉社(現:中区三組町)に奉納された。

 

1583(天正11)年家康の五子信吉が浜松で誕生。信長の死後、勢力を増してきた秀吉と小牧・長久手の戦いが起きたが、秀吉のもとへ家康の子を養子に出し、和議が成立した。秀吉との関係では、先の1579(天正7)年家康が45歳のとき、秀吉の異父妹である旭姫44歳と結婚。秀吉の協力者として行動してきている。

 

駿府へ移る

1586(天正14)年家康が45歳のとき、17年住んだ浜松を去り駿府城へ移る。1589(天正17)年秀吉の命で領地をこれまでの駿河・遠江・三河・甲斐・信濃から、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総等に移され、江戸城を居城にした。

1598(慶長3)年秀吉が、「秀頼が成人するまで家康に託す」という遺言を残して死去してからは大坂で政務を行うようになった。

 

天下人となる

1600(慶長5)年豊臣の後継争いで起こった、石田三成を中心とする西軍との戦いに勝利し、家康は実質の天下人となり1603(慶長8)年に江戸幕府を開いた。1605(慶長11)年将軍職を辞任して秀忠を後継とし、以後徳川氏の世襲を示した。1614(慶長19)年大坂冬の陣、1615(元和元)年大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、これにより徳川の天下が揺るぎないものとなった。 

しかし1616(元和2)年、鷹狩りの際に倒れ、駿府城にて家康は75歳の生涯を閉じた。

  

家康ゆかりの場所
鎧掛松

家康が浜松城に入ってからは、毎年のように戦いを繰り広げていた。ある夏の日、合戦から帰った家康は、あまりの暑さに来ていた鎧をとって傍らの松にかけて涼をとった。人々はこれ以後、この松を鎧掛けの松と呼んだ。この松は成長し大きくなったが、1932(昭和7)年の暴風で倒れた。現在の松は1992(平成4)年に元城町の人たちの手で現在地に植えられた。現在の松は三代目。また、松の近くの清水は、戦いで疲れた馬の疲れたからだを冷やしたことから、「馬冷(うまびやし)」と言われ、松城町内にその地名が残っている。

 

 

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