特集
浜松の山城に注目!
~中世から近世の様々な歴史が見えてくる~
浜松にある山城の数はなんと・・・
2011(平成23)年11月19日(土)・20日(日)に全国山城サミットが浜松で開かれた。このサミットは、山城のある市町村や関係団体が集まって情報交換をする、かなり大規模な催し。1994(平成6)年に第一回が開催されて以来、今回の浜松での開催が18回目を数え、2010(平成22)年現在、73自治体・104城が加盟しているという(浜松市は2006(平成18)年に加盟)。
なぜ、この「山城」に食いついたか?というと、単に、このサミットが浜松で開催されたからだけではない。2011(平成23)年10月に発行された市政情報誌『もっと浜松 ずっと浜松第2号』に紹介されたように、「浜松にはなんと100以上の城があった!」のだ。この言葉に「そんなにあるの??」と驚いた人も多いはず。浜松は、北遠地域を中心に、尾根伝いの地形を活かした「山城」が多いことが特徴で、全国の山城ファンを釘づけにしているらしいのだ。(※この100の中には、砦や館、軍事に使われた社寺なども含まれている)
市制情報誌『もっと浜松 ずっと浜松第2号』
天守閣だけが「城」ではない
普段「城」と聞いて思い浮かべるのは、身近なところでは浜松城、さらに枠を拡げれば、名古屋城や大阪城など、天守閣がそびえる建物を想像するが、こうした豪華絢爛な城が造られたのは、城文化も後半になってからのこと。「城」とは敵との攻防の際に砦となる構造物を指すので、そもそもは石垣や土塁などが防御の拠点になっていた古代にまで遡ることができる。そして北遠地域は、特に中世の権力争いの中、急峻な山々と川などの自然地形をそのまま「山城」として活かされている城址が数多く遺されている。これらの山城は、南北朝から戦国期の攻防の中で、めまぐるしく城主が変わり、そのたびに改修・築城が繰り返され、最終的に石垣や瓦葺の建物が登場しだすのは、豊臣秀吉が台頭し始めた時代。城は、権力を誇示する象徴のような役目になっていった。
となれば、私たちがいま目にしている城址は、いくつも織り重なった歴史を積み重ねた状態で眺められるということ。これは奥深い城址観賞ができそうだ。というわけで、全く「城」に対する知識もなかった情報BOOKスタッフが、山城散策に出掛けた。
犬居城址と堀之内の城山
まずは天竜区春野町にある犬居城址と堀之内の城山。どちらも険しい地形を活かした山城の典型で、現在頂上までウォーキングコースになっているが、運動不足の筆者は、頂上にたどり着くだけで息切れ。昔は防具を身に付け、武器を持って駆け上がっていたのだろうと想像すると、その健脚ぶりに感嘆する。しかし犬居城頂上にたどり着けば、周囲を見渡すこの眺め。気田川を遥か眼下に望むこの高さから、敵の動きなどを監視し、策略を練っていたことだろう。
高根城址
眺めのいい城つながりで、続いて向かったのは天竜区水窪町の高根城。こちらも駐車場から約20分の整備道を上ると、頂上に到着。山城としての地形を活かし、武田氏が大改修をしたとも伝えられ、現在見る井楼櫓などは、その当時の様子を復元したもので見応え十分。さらに頂上から眺める水窪町の町並みは圧巻だ。
二俣城址と鳥羽山城址
次に訪れたのは、天竜区二俣町の二俣城址と鳥羽山城址。これらは、今川氏の拠点であり、その後、武田信玄と徳川家康の攻防が繰り広げられた城としても知られる。そして現在見られる石垣や二俣城の天守、鳥羽山城址の大手道や本丸庭園などは、豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴の代になって築かれた、城文化の中では、比較的新しい時代の遺構といえる。
※この二つの城址は、駐車場から歩いてすぐの距離にあるので、お散歩気分で訪ねられるスポット。
歴史を感じる山城めぐり
今回、天竜区の山城を巡ったが、これだけですでに中世から近世までの時代を駆け抜けたことになる。北遠エリアは、それだけ時代時代の武将たちにとって、交通要、経済の拠点として、注目される地域だったのだろう。まだまだ深い歴史を秘めた山城は、ここかしこに点在する浜松。城址を訪れ、しばしのタイムスリップを楽しんでみてはいかがだろう。
※注意
犬居城址、堀之内の城山、高根城址は、険しい山城です。体調管理をして、歩きやすい靴と服装で、数日に分けて訪れてください。
2011年12月投稿
関連項目
浜松自慢エッセイ-その①- 「浜松の楽器博物館は世界一!」
浜松自慢エッセイ-その②- 「餃子文化は浜松オリジナル」
浜松自慢エッセイ-その③- 「民俗芸能に浸る幸せ」
浜松自慢エッセイ-その⑤- 「『30分間回泳』は浜松オリジナル!」