堀内平八郎ほりうちへいはちろう
誕生地 | 長野県上伊那郡 |
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生年 | 1915(大正4)年 |
没年 | 1997(平成9)年 |
堀内平八郎とは
堀内平八郎は、浜松テレビ株式会社(現浜松ホトニクス株式会社)を設立し、光電子増倍管(こうでんしぞうばいかん)を開発した人物。
生涯
1915(大正4)年8月8日長野県上伊那郡西箕輪村(現:長野県伊那市)に生まれた平八郎は、算数やスポーツが得意な子供だった。「今見ている北極星の輝きは800年前の光」と小学校の授業で聞き、光に興味を持った平八郎は、髙栁健次郎が浜松高等工業学校(現静岡大学浜松キャンパス)でテレビ研究をしていることを知り、すぐに進学を決意。また1940(昭和15)年の日本オリンピックで日本の科学技術を世界に誇示するため、NHK技術研究所に協力を依頼された髙栁の下で電子管研究に没頭。さらに戦時中は陸軍第7研究所に所属して日本電子工業株式会社に出向しながら約10年間暗視管の研究に取り組んだ。
戦後の1948(昭和23)年、平八郎は浜松市海老塚町(現:中区海老塚町)に東海電子研究所を創設し、電子管の研究製作を始めたが、戦後の混乱期の中で特殊な事業は極めて困難を極め、机や工作用具まで自ら手掛けていた。そんな苦しい時代を切り抜け、ようやく社会の生活が落ち着き始めると、今度はテレビ開発がすさまじい勢いで成長し始めた。そして松下電工から外灯用の光電管の発注が入り、ようやく商売の手ごたえを感じ始め、1953(昭和28)年浜松テレビ株式会社(現:浜松ホトニクス)を設立した。
光と電気とは物理的に兄弟関係だから、光を電気に変換して使いやすくする、すなわち、テレビ技術の応用を製品化に持ち込めば、おそらく国境を越えて人類社会に貢献できるはず。そう考えた平八郎は、研究を進め、光電子増倍管(こうでんしぞうばいかん)開発に成功。1968(昭和43)年関東地方発明表彰で特賞を受賞したのを皮切りに数々受賞。さらに熱線やX線などの電子変換や、光導伝セル、撮像管などを利用した計測用テレビジョン装置等も開発。その後、東京大学が宇宙観測用に打ち上げたミューロケットの追跡指令装置や、これに積み込まれた計測用テレビジョン装置も平八郎の会社製品だった。
浜松テレビ株式会社はその後、1983(昭和58)年浜松ホトニクス株式会社に社名変更。以後も光関連の研究開発型企業のパイオニアとして前進し続けている。
平八郎は1997(平成9)年81歳で逝去した。
参考
『浜松ホトニクス40年史』
『遠州機械金属工業発展史』
画像提供
浜松ホトニクス株式会社
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