木下恵介きのしたけいすけ
誕生地 | 現:中区伝馬町 |
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生年 | 1912(大正元)年 |
没年 | 1998(平成10)年 |
木下恵介とは
木下恵介は、映画監督。
生涯
1912(大正元)年12月5日、木下恵介は浜松市伝馬町(現:中区伝馬町)に父・周吉、母・たまの間に七男三女(上の二人は幼い頃に死亡)の六番目として誕生。大正に改まったばかりだったため、正吉と名付けられた。ちなみに恵介という名前は映画界に入ってから名乗ったペンネームで、後に還暦を機に本名にした。
両親は母の郷里である浜松で尾張屋という漬物やつくだ煮の商いをして子供達を育てた。木下少年がスペイン風邪にかかったときは、医者から「もう助からない」と言われたが、必死に看病して命を取りとめた。そんなこともあってか、兄弟の中でも特に溺愛されて育った。
小学校は元城小学校に通った。小学校三年生のころから自分で映画を観に行くようになり、浜松の5館ある映画館によく通い、成長するとともに映画監督を志すようになった。そんな彼を家族は応援し、少年時代から写真館の見習い鞄持ちをしていた。
繊維関係の産業が盛んだったため、高校は浜松工業学校の紡織科に進学。卒業後は日比谷と神田の写真館で下宿しながら修行を積んだ後、オリエンタル写真学校で学んだ。1933(昭和8)年に松竹映画蒲田撮影所に入社。1936(昭和11)年大船撮影所が開所し移転すると、厳しい島津保次郎に師事して監督助手になった。
戦争がはじまると、出兵を余儀なくされたが、体を悪くして召集解除となり映画の世界へもどった。1943(昭和18)年太平洋戦争のさなか、監督としての第一作『花咲く港』を発表、1951(昭和26)年には日本最初のカラー作品である『カルメン故郷に帰る』を発表し注目される。この年に木下はパリに滞在したことで、日本自体を改めて見つめ、その後の映画に反映するようになる。
『二十四の瞳』(1954(昭和29)年)、『野菊の如き君なりき』(1955(昭和30)年)、『喜びも悲しも幾歳月』(1957(昭和32)年)、『楢山節考』(1958(昭和33)年)などを発表し、ヒット作となり、日本を代表する映監督となる。しかし1960(昭和35)年代になると日本の映画界は急速に衰退。三十年以上在籍した松竹をやめて木下はフリーになると、テレビ界に転換し、木下恵介アワーなど多くのテレビドラマシリーズを手掛た。。
10年来病床につき、1998(平成10)年逝去。
彼の映画作品総数は49本。遺作は『父』(1988(昭和63)年)。
人となり
家族や親子関係をテーマにした映画を撮り続けた。特に木下にとって父母は理想の人間であり、理想の夫婦で、理想の親だった。
小さいころから物語好きで、覚えた話をよくみんなの前で話をした。
写真学校時代によく飲みにいった店の名が「けいすけ」で、恵介という名前をペンネームにするようになった。
小柄な体に穏やかな話し方で温厚だが、自分を曲げない監督。
ものの好き嫌いが激しく、好き嫌いこそ個性だと考えていた。
たくあんが大嫌いで、大好きなのはドジョウどんぶり。
松竹で撮影助手をしていたころから、一日一本のストーリーを作り上司に見せていた。
木下は一度結婚しているが、一年もたたずに離婚。
木下恵介の下からは多くの監督、脚本家、俳優が育ち、木下学校ともいわれた。撮影後は助監督やスタッフを自宅に招き、お手伝いさんの作る料理でもてなし、語り合ったり、木下作品の映写会を開いたりした。その際には自分の映画を観て、笑ったり、泣いたりしたという。
太平洋戦争の空襲の際に脳溢血で寝たきりとなった母、そして父も、恵介が同居して看取った。
その他
弟の木下忠司(1916(大正5)年~)は映画音楽作曲家で、妹の楠田芳子(1924(大正13)年~)は脚本家。
伯父(母の兄)は浜松の凧揚げ祭りのときの浜松音頭を作詞した人物。
参考・見学
書籍
『日本中を泣かせた映画監督~木下恵介伝』
『木下恵介の映画』
『木下恵介の世界』
『異才の人木下恵介』
『木下恵介の遺言』
施設
浜松文芸館分館「木下恵介記念館」
浜松といえば
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