太平洋戦争たいへいようせんそう
太平洋戦争による被害
太平洋戦争で、浜松上空に敵機が現れたのは1944(昭和19)年11月。同年12月7日東南海地震が起き、打撃を受けていた上に、12月23日浜松で最初の空襲を受け、佐藤町方面が焼夷弾攻撃の被害にあった。1945(昭和20)年になると一段と攻撃が強まり、1月には馬込川左岸の東部工業地帯(植松、神立、天神町方面)、2月には南部工業地帯(砂山、寺島、海老塚)が攻撃された。その後空襲地域が市の中心部に移り、浜松駅が全焼。旭町、中沢町、元浜町、砂山町にまで被害が及んだ。6月17日夜11時50分過ぎ、鴨江町、栄町、利町から火の手があがり、一夜にして全市が火の海となり、18日未明に鎮火。浜名・引佐・磐田の連合義勇隊が炊き出しや道路障害物の除去、死者発掘等に力を貸した。
7月29日には夜9時45分頃から遠州灘からの艦砲射撃で多くの被害がでた。
被災状況は、特に軍事基地があった三方原や、天竜川鉄橋や高射砲陣地などがあった中野町、和田、飯田などの被害が大きかった。
1945(昭和20)年浜松への空襲は8月1日が最後。8月15日天皇の詔勅放送の翌16日は抗戦を叫んで、三方原飛行基地の有志軍人が決起し、水窪山中に陣地を造り抗戦するという計画が持ち上がったが、一週間もたたないうちに自然解散となった。
データ
警戒警報340回
空襲警報76回
被災戸数31000戸(当時の3万4000戸の88%)
被災人口12万人(当時の人口18万7000人の64%)
死者2947人
重軽傷者1702人
1942(昭和17)年陸軍墓地に建設され、現在中区住吉4丁目町にある忠霊殿には戦没・戦災死者10857柱が眠っている。こうして、戦災前の浜松市の人口約187000人だったのが、1945(昭和20)年9月8日には69298人となった。
関連項目
参考
浜松市史
浜松といえば
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