鷹野つぎたかのつぎ
誕生地 | 現:浜松市中区尾張町 |
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生年 | 1890(明治23)年8月 |
没年 | 1943(昭和18)年3月19日 |
鷹野つぎとは
大正時代、私小説に足跡をのこした女流文学者
幼少期~青年期
1890(明治23)年8月浜松町下垂に、油雑貨商の父弥助、母なをの次女として生まれた。本名は岸次(つぎ)。
1897(明治30)年浜松尋常小学校入学、1901(明治34)年浜松女子尋常高等小学校高等科へ進学し、1904(明治37)年に浜松高等女学校に入学。1907(明治40)年に静岡県立静岡高等女学校研究科に進んだが、退学して浜松へ戻った。
少女時代から読書が好きで、「少年」を愛読し、ときには投稿してメダルを贈られたこともあった。
結婚
浜松へ戻ってからは文芸雑誌へ投稿するようになり、19歳のときに『女子文壇』に小説「女気」、詩「淋しみ」、『新声』に詩「心いま」が入選した。このころ生涯の伴侶である新聞記者の鷹野弥三郎と出会い、弥三郎とともに浜松を去った。
それからは名古屋で弥三郎とともに新生活をはじめ、弥三郎との正式な結婚の際は、松島十湖の養女となり入籍をしている。夫の転任で豊橋、沼津、さらに福島、東京と各地をめぐり、子供たちにも恵まれた。
作家としての成功
1912(大正元)年文芸誌『温室』に小説「古巣」を発表。翌年には名古屋新聞に小説「寄生蟲」、1914(大正3)年には同人雑誌『一隅』の同人として小説を発表。この間に長女が乳児脚気で亡くなったことはつぎにとって大きな悲しみとなった。
1917(大正6)年から27年間を東京で過ごす間に、つぎの名前は大きく世間に知られていくことになる。つぎは、島崎藤村を中心とした婦人雑誌の「処女地」へ同人として参加し、「悲しき配分」という作品で文壇の注目をあび、以下、次々に作品を発表した。
1922(大正11)年 「悲しき配分」 新潮社発行
1923(大正12)年 「真実の鞭」
1924(大正13)年 「ある道化役」 紅玉堂発行
1935(昭和10)年 「子供と母の領分」 古今書院発行
1940(昭和15)年 「幽明記」 古今書院発行
1940(昭和15)年 「四季と子供」
1942(昭和17)年 「女性と道途」 古今書院発行
1944(昭和19)年 「娘と時代」 三国書房発行
1944(昭和19)年 「春夏秋冬」 山根書房発行
つぎの家族は胸部疾患に苦しむことが多く、夫の弥三郎が失職したり、つぎ自身も健康が優れなかったりというなかで作品を執筆。作品「四季と子供」には故郷である浜松の四季のうつろいや行事を主に、子供時代の生活が織り込まれている。
また
「私の当初化時代」1936(昭和11)年谷島屋タイムス
「往時の浜松」1938(昭和13)年谷島屋タイムス
「私の投書家時代」1941(昭和16)年遠州文学
などを浜松の雑誌に寄せている。
1943(昭和18)年戦況が激しくなりつつあるとき、「またとなきおほき戦さの行先も明らめもせでわれは逝くなり」と遺して3月19日54歳で死去した。
死後
つぎの浜松高等女学校入学から卒業までの回想をつづった「娘と時代」と随筆の「春夏秋冬」はつぎの没後に刊行された。
1973(昭和48)年つぎの文学碑が母校である浜松市立高等学校の校庭に建てられた。
それには「ふるさとよ 浜松 はままつは わがふるさと したはしき母かも 呼ぶにも似たる いとしき児かも 呼ぶにも似たる なつかしの はままつ 思いは馳する わがふるさと」と刻まれている。
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