松島十湖まつしまじっこ
誕生地 | 現:浜松市東区豊西町 |
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生年 | 1849(嘉永2)年3月17日 |
没年 | 1926(大正15)年7月10日 |
松島十湖とは
明治、大正の時代に、第二の芭蕉といわれ、全国に多くの門弟を持った俳人
生涯
1849(嘉永2)年3月17日豊田郡中善地村(現:浜松市東区豊西町)の昔からの農家の家に誕生。6歳から撰要寺で教育を受けた。
父の死を経験し、その後15歳になると俳句に興味を持ち、当時遠州で有名な俳人だった栩木夷白(とちぎいはく)の弟子となり、雅号を十湖とした。
天竜川の大洪水で田畑や家屋が押し流され、家屋復旧に翻弄されながらも勉強を続け、わずか二年で俳句選者の地位を与えられた。
栩木夷白の死後は、伊東嵐牛(いとうらんぎゅう)や東京の俳人、橘田春湖に教えを受けた。国学、漢学、和歌、絵画などを学びながら、さらに人間を磨くためにと、報徳学者である小田原の福山竜助の元を訪ね、報徳主義者の一人となった。
1869(明治2)年、天竜川の堤防が決壊し、村民が大変な被害を受けたときには、自分の家の蔵を開いて、米麦を村民に与えた。
また中善地にも渡し船がほしいと浜松県庁に36回も直談判をし、開設許可を得た。
1874(明治7)年十湖は中善地村に「三方報徳社」を組織し報徳の教えを広め、1876(明治9)年には浜松県公選民会の議員に選出され、同年、静岡県に合併されると県会議員となった。
当時盛んだった養蚕に熱心で、村民に飼育法を教えたり、自らも飼ったりしていた。
それと同時に自宅横に「撫松庵」を建て、俳道の普及にも努めていた。
1880(明治13)年からは県庁に勤め尽力。さらに翌年からは引佐麁玉郡長として気賀に赴任。役所の精神改革をしたり、農業振興のために「西遠農学社」を創立したりした。また道路を作り、橋を架け、学校校舎新築も奨励ることも積極的に行った。
役所の仕事と同時に俳句の道も休むことなく、「西遠吟社」を設立。郡内をめぐった紀行文を出版して配布したり、行った先々で俳句を残したりした。
俳句を盛んにするため、後世まで残る句碑を建てることが必要と、多くの句碑を建設した。
1887(明治20)年笠井町に大火があったときには救助と復興に尽力。司祭を寄付。同年豊西小学校の前身である小学校の校舎新築にも寄付している。
1896(明治29)年浜名郡郡会議員就任。
1925(大正14)年鴨江寺(現:中区鴨江町)境内に十湖の銅像が建設され、翌年除幕式が行われた。この銅像は戦時中に供出したため、今はない。
そして1926(大正15)年7月10日死去。東区豊町の源長院に祀られている。
作品例
浜松は出世城なり初松魚(八幡宮:中区八幡町)
三日見ぬ細江のへりの青田哉(細江神社:北区細江町気賀)
何事もかかる浮世か月の雲(実相寺:北区引佐町金指)
人となり
奇人として知られ、貧しさを喜び、人に施すことを楽しみにしていた。
郷里を離れているときには、いつも母親に陰膳をあげて孝行心が深かった。
白ひげを長く伸ばし、長髪を後ろになでつけ、らんらんと光る眼が特徴的。
金原明善とともに「遠州の翁」と呼ばれた。
参考
『遠州偉人伝 第一巻』(浜松民報社)
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