石川倉次いしかわくらじ
誕生地 | 現:中区鹿谷町 |
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生年 | 1859(安政6)年 |
没年 | 1944(昭和19)年 |
石川倉次とは
日本点字の創始者
生涯
1859(安政6)年1月26日現在の中区鹿谷町に誕生。
父、専七は上野国(現:群馬県)出身で、井上正直に仕えた武士として1845(弘化2)年主君とともに浜松に移った。
倉次は幼少期、富塚方面へ魚釣りやシジミ取りに連れて行ってもらっていた。
8~9歳の頃には現在の早馬町に手習いに通い、藩士の子弟が通う克明館(現在の高町)に入学。西洋の砲術や英語も習い成績は抜群だった。
10歳で上総国(現:千葉県)に移住するまで浜松で過ごす。
1870(明治3)年12歳のとき鶴舞の克明館に入学。
1872(明治5)年学制発布後は一時閉鎖されたが、翌年鶴舞小学校として再出発したこの小学校で学ぶ。
父、専七は版籍奉還などの時代の流れで職を失い苦しい境遇だったが、倉次は1875(明治8)年鶴舞小学校を主席で卒業すると、この小学校の助教として採用された。
1881(明治14)年、久野さのと結婚し翌年長男誕生。このころから国語・国字の研究に熱中しはじめ、東京の「かなのくゎい」に参加。そこで知り合った小西信八(新しい盲唖教育の基礎作りをしていた)先生から訓盲唖院へ招かれ、1886(明治19)年訓盲唖院(現筑波大学付属視覚特別支援学校)の教員となる。当時目の不自由な人の文字はあったものの、読めるようになるまでに時間がかかる使いにくいものだった。そのため倉次はフランス人のルイ・ブライユが考え出した点字を日本式に作り変える仕事に取り組んだ。
日本語は文字数が多く独特な発音があるためとても苦心しながらも、同僚や生徒たちとの努力によりついに1888(明治21)年3点4方の8点を基とする案を作り上げた。
その後、1889(明治22)年遠山邦太郎が6点点字案を発表。
1890(明治23)年倉次案の3点2行の6点点字完成。この年の11月1日選定会で倉次の点字が日本点字として選ばれた。以後この日が点字記念日に制定された。
1898(明治31)年懐中点字器を発表。これにより盲人がいつでもどこでも文字が書けるようになった。またこの年、拗音(きゃ、ぎゃ、ぴゃなど)の点字を完成。
1904(明治37)年石川式点字タイプライター発表。
改良を加え1907(明治40)年点字の全組織を発表。倉治が研究をはじめて20年を経てすべての体系が完成した。
1929(昭和4)年倉次が来浜したのをきっかけに、翌1930(昭和5)年浜松盲学校(現:県立浜松視覚特別支援学校)に記念碑が建立され、倉次も除幕式に出席。
記念碑に記された「頌徳」の文字は後の内閣総理大臣犬養毅、「日本点字創始者石川倉次先生記念碑」は後の農相山崎達之助の揮毫。
記念碑はその後移転し、1964(昭和39)年浜松市立中央図書館敷地内に移転し現在に至る。
1944(昭和19)年疎開先の群馬県内で12月23日86歳で逝去。
人となり
日頃から健康に気を配り、いつも持ち歩いていたと思われる白扇に健康法が書かれていた。
若い頃からこまめに日記をつける習慣があり、亡くなるまで書き続けた。
各地に親族が多くいたこともあり、よく旅行をしていた。
参考
『静岡県歴史人物事典』
浜松市立図書館資料『石川倉次』
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