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特集

【投稿エッセイ】古代に秘められたロマン

コピーライター・プランナー 加藤修一

 

五千年前、佐久間の山あいで
信州と遠州の縄文人間が
持ち寄った産物で宴をしていた!?

 

自動車や道路が発達し、遠州灘で獲れた魚や貝が午前中に信州に着いてしまうことは、現代社会では当然のように思われている。ところが、縄文社会に、もしもそれが可能だったとしたら驚きである。
地形から見て、物の動くスピードは南北より東西に早いと思われがちな遠州。縄文時代はどうだったのだろう。遺跡から推測してみる。

  

三万年前、すでに遠州人は住んでいた

人類は約240万年前にアフリカで誕生し、世界各地に広がっていったとされている。人類のこれまでの長い歴史を一年にたとえるなら、これまでに解明、把握されていることは、大みそかの夕方から後の、ほんの数時間といえる。
日本人は蒙古、チベット、中国、ビルマなどに住むモンゴル人種の仲間で、大陸と陸続きであった頃、日本列島に移り住んできた。静岡県人のルーツも、中国大陸から朝鮮半島を通って東進してきたようだ。九州と朝鮮半島が陸続きであった頃の旧石器時代(約3万年~1万年前)、天竜川左岸の磐田原台地や愛鷹山南麓、箱根西麓のその頃の地層から石器が発見されていることから、既に私たちの祖先が住みついていたことが伺える。特に1万年前から3千年前の縄文時代の遺跡から発掘されたものを見ると、東西、南北の交流がよくわかる。

 

現代人よりグルメだった!?蜆塚の村人

浜松市の蜆塚遺跡は、今から4千年くらい前の縄文時代の"ムラ"跡。たまたま、シジミが目立って多く発見されたことから名付けられたが、実際は多種にわたる食事内容の痕跡が見られた。その内容の豊富さは、現代人を上回り、肉や魚もぜいたくなものを食べていた。シジミ、アサリ、ハマグリ、カキはもちろん、マダイ、クロダイ、スズキ、コチやフグまで、しかも狩猟道具の関係から大型のものばかり。山の幸も、ドングリ、クルミなどの木の実や、シカ、イノシシ、ウサギ、タヌキなども食べていた。
縄文、弥生時代の人骨に含まれているコラーゲンを解析すると、当時の栄養摂取状態が分かるが、動物性蛋白質と植物性たんぱく質の摂取割合が、現代人に近いという。当時の平均身長も160センチ以上で、粗食に耐えていた江戸時代の平均身長155センチを上回っている。
蜆塚遺跡の貝塚断面
【写真は蜆塚遺跡の貝塚断面】

 

朝どれの生魚をお昼には佐久間へ!?

15年くらい前、信州の白樺湖近くで、海の貝が大量に含まれた縄文遺跡が発見された。魚や貝は海辺に住んでいた人ばかりでなく、内陸の人も豊富に食べていたようだ。干物にして持ち込まれたことも考えられる。たとえ、生であっても半径20~30キロの生活圏(ムラ)ごとに運搬専門員がいて、駅伝式に運べば、一日足らずで60キロ内陸の現在の佐久間町あたりへ運び込むことくらい容易だったようだ。また、鮮度を保つために、清流沿いの「塩の道」は、魚や貝に冷水をかけながら運ぶにも便利だったようだ。
水窪の青崩峠付近に、サバを抱えたお地蔵さんが立っている。中世は、塩サバを馬の背にくくりつけ、この峠を越えたのだろう。近世になると「浜しょい」という行商人が現れ、海で獲れた海産物を天竜川上流へ運び、売る人が目立つようになった。塩の道はまさに海産物を運び込む道でもあった。
現在、早朝に焼津で仕入れた魚をトラックに積んで、北遠地方に売っている行商もみられるが、朝どれの刺身をお昼に食べられるのは、縄文時代からずっとありえたことかもしれない。
佐久間町で発掘された土器を観れば、遠州灘の海の幸と、北遠の山の幸を大きなツボや鍋に入れて煮込み、交流の宴を開いていたかもしれない、という浪漫もわいてくる。
水窪町青崩峠の鯖地蔵
【写真は水窪町青崩峠の鯖地蔵】

 

交流を物語る黒曜石の動き

縄文時代、天竜川の上流と下流のつながりを証明するものとして、黒曜石がある。火山性の天然ガラスで、その割れ口が鋭利なことから、石器の材料となっていた。蜆塚遺跡では、百パーセント信州産の黒曜石。しかし、浜松市北部、黄金遺跡の50パーセントは、伊豆七島の神津島産の黒曜石が発見されている。遠州には、信州から安定して入っていたが、ある一時期に、神津島のものが多く流入したと思われる。
石器の材料や食料の物々交換によって、縄文時代の食生活は広い範囲の特産物を味わうことができた、グルメな時代だったようだ。
 

【加藤修一 プロフィール】

株式会社シュー・クリエイト代表
著書に「遠州の民話」(静岡新聞社)、「あるじゃん・くらしの情報源」(シュー・クリエイト出版部)などがある

 

2011年11月投稿