蜆塚遺跡しじみづかいせき
所在地 | 浜松市中区蜆塚四丁目 |
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時期 | 縄文時代後期~晩期前葉 |
蜆塚遺跡とは
縄文時代後期から晩期前葉の貝塚を伴う集落の跡。
貝塚の規模は東海地域各地に残る縄文時代の貝塚の中でも有数であり、静岡県内においては磐田市の小規模な貝塚を除けば縄文時代の貝塚はほとんど例がなく、貴重な原始遺産。
貝塚から出土した貝類は入り江や河口に多いヤマトシジミが9割以上であり、そのほかにはハマグリ、マガキ、キサゴなどもみられる。動物の骨ではシカ、イノシシ、クジラ、ウミガメ、鳥はツルやキジ、魚はコイ、フナ、クロダイ、スズキ、カツオなども出土。
縄文土器や動物の骨を加工した道具、そして墓地と思われる場所からは縄文人の骨も発見されている。
1959(昭和34)年5月13日に国の文化財に指定された。
貝塚に守られた歴史
蜆塚遺跡のある三方原台地は酸性の土壌であり、骨や貝殻が地中にあればすぐに腐食してしまうが、これだけのものが残されているのには、貝塚が大きな役割を果たしている。
貝塚の大量に積み重なった貝殻が、その中にあったものを保護していたため、当時の状態を保ったままのものが多く出土した。
貝殻自体も長い年月をかけて失われているので、縄文時代の貝塚は現在よりもはるかに大きいものであったこと思われる。
人々の暮らし
貝塚に接するように発見された平地住居跡からは、一時期の集落は3~5戸ほどで、20人を超えないくらいの人口で村が形成されていたと考えられる。
また、貝塚に保護されていた人骨から、縄文時代の人々の平均身長が150cm、平均寿命が35歳程度であったことがわかる。発掘された人骨のほとんどが、掘った穴の中に手と足を曲げて直接埋めた屈葬(くっそう)であった。中には犬歯のみが抜歯された頭蓋骨もあり、当時の習俗と考えられる。
出土した動物の骨からは、やじりが刺さった状態のものも見つかっており、縄文人が弓矢で狩りをしていた事実だけではなく、弓矢の威力も証明した。しかし、貝塚から見つかった貝や動物の肉のみを食べて生活していたわけではなく、木の実を食料として使う際に皮を剥くのに使ったと思われるくぼみ石などが見つかっていることから、木の実なども貴重な食料であったと思われる。
他地域との交流
遺跡から出土した縄文式土器などから地域間の交流をうかがうことができる。
蜆塚遺跡が形成され始めた頃の土器文様は、東日本的土器文様である磨消縄文が主流をしめているが、後期中頃にはその手法は衰退し、後半は近畿地方を中心とした西日本的な施文法が主流となる。縄文時代からすでに静岡県の文化が東日本、西日本いずれかの強い影響下に発展してきた。そして、両地域の文化は静岡県を通過して相互に影響しあっている。
また、装身具として使用されていたヒスイは新潟県姫川流域で産出する原石が使用されている。
縄文時代にも遠く離れた地域との交流があったことがこのことからわかる。
当時の地形
貝塚に残る貝殻の9割以上がヤマトシジミであることから、蜆塚遺跡が営まれていた縄文時代、佐鳴湖は太平洋に通じる長い入江であったと考えられる。また、ハマグリが出土していることから、海岸あるいは内湾の入江に砂浜が広がっていたと思われる。
佐鳴湖南岸にあった砂丘の発達と、海岸線の後退によって入江がふさがれ、佐鳴湖は現在のような淡水湖となったようである。
関連項目
参考
『縄文貝塚につどう』(浜松市博物館)
『日本の古代遺跡1 静岡』(保育社)
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