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矢高濤一やたかとういち

誕生地 現:浜松市天竜区佐久間町浦川
生年 1820(文政3)年
没年 1900(明治33)年
矢高涛一とは

北遠地域の治水事業に私財を投じて取り組んだ。
また、金原明善から相談を受け、治山事業にも従事している。

 

生涯

1820(文政3)年、豊田郡浦川村(現:天竜区佐久間町浦川)の旧家日名地(ひなち)家長男として生まれる。
1838(天保9)年、18歳で家督を弟に譲り、剣道修行のために江戸へ出て男谷(おだに)家の門に入った。そして、7年間の修行の末、免許皆伝となると帰郷している。
1853(嘉永6)年には中泉代官所(現:磐田市中泉)の剣道師範に任命された。
1859(安政6)年、浦川村の名主となるとさっそく水防問題に取り掛かる。
1860(万延元)年に早瀬に70間、1861(文久元)年に島中に300間、1862(文久2)年に上市場に150間の石垣堤防を修築。
1869(明治2)年より、4年の歳月をかけて浮森(うきもり)山鞍部(あんぶ)の開削を完成させた。
1881(明治14)年からは金原明善の治山事業にも協力、天竜川上流の植林作業を推進し、成功させている。
1900(明治33)年、病のため他界した。

 

浦川村の治水

浦川村は村中を流れる大千瀬川と相川によって度々洪水に見舞われ、村を捨てる者まで出る始末であった。そんな中、村の名主となった矢高濤一は、水防問題を解決する事により村の建て直しをはかった。
まず、藩の援助を受け、不足分は私財を投じ、早瀬・島中・上市場に総延長520間(約946m)の石垣堤防を構築した。
1867(慶応3)年には相川が浮森山にぶつかって迂回する部分を削り、川を直進させることによって水害を軽減させ、さらに水が通らなくなった迂回部は土砂で埋めて新田を作るという大事業を計画。しかし、人力のみが頼りの当時、高さ40m、長さ100m、幅20mに及ぶ山の鞍部を削ることは容易ではなく、不安視する声も多く聞こえ、また、資金面に関しても貧しい山村ではどうする事もできない状態であった。
濤一はこの計画の許可と資金の援助を求めて中泉役所まで幾度も往復し、濤一の不動産を担保に300万円を借り入れている。そして、工事着工のめどがつくと村人たちも進んで協力するようになり、1869(明治2)年から4年の歳月をかけて開削を完成させた。
また、もともと川の通っていた3町歩(約3ha)の土地には新田が造成され、すべて村人たちに分配された。

 

参考

『郷土の発展につくした人々』(静岡県教育委員会)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社)

 

 

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