浜松の氷糖産業はままつのひょうとうさんぎょう
浜松の氷糖産業とは
昭和初期、浜松は氷砂糖生産量日本一を誇っていた。
時代を遡り1889(明治22)年、遠州森に「明治の発明王」とも呼ばれる鈴木藤三郎のもとに、河合伝吉が氷砂糖の製造技術を学び、中村藤吉の出資を受けて浜松の地に棒屋商店氷糖部が設けられ、浜松の氷糖産業に風穴を開けた。
1913(大正2)年、中村氷糖合資会社が設立され、常務であった松島保平は氷砂糖輸出の改善を図り、浜松の氷糖業界の発展に尽力。その後、中村氷糖合資会社は大日本製糖株式会社(鈴木藤三郎設立)と氷糖産業と一体化し、1918(大正7)年に大日本氷糖株式会社が設立された。
そこで常務取締役に就任した保平は、氷砂糖を製造する過程でとれる副産物の氷糖蜜を再利用できないかと考え、竹内権七に命じて、約1年を費やし1921(大正10)年、氷糖蜜から金平糖を製造する機械を完成させた。
同年、保平は氷砂糖と金平糖の生産を一体化した三立製菓株式会社を創業。
1924(大正13)年に氷砂糖を利用したビスケットの生産を開始、1937(昭和12)年にはカンパン製造をスタートし、日中戦争の混乱期に氷糖産業の着実な発展をもたらした。
このとき、大日本氷糖株式会社は、関東大震災の工場倒壊をきっかけに解散。大日本製糖株式会社(東京)と、中村氷糖株式会社(浜松)、旭日氷糖株式会社(浜松・堀内勝治郎)に分かれ、浜松内の二社の激しい競争も追い風となり、浜松の氷砂糖は先進地大阪を逆転して、品質、生産額とも日本一になっていった。
なかでも、旭日氷糖株式会社の堀内勝治郎は、1915(大正4)年結晶室の保温用燃料を瓦炭から上記に変える方法を編み出し、さらに1933(昭和8)年「クリスタル法」という結晶作用をさらに高める方法を考案したことは、飛躍的に氷砂糖の製造効率を高めた。
※ちなみに、旭日氷糖株式会社の関連会社として勝治郎が設立した旭日写真工業株式会社は、1928(昭和3)年、日本で初めての写真ロールフィルム「菊フィルム」を発売。しかし勝治郎の死後、企業整備令により、1944(昭和19)年、旭日氷糖株式会社と旭日写真工業株式会社は共に解散した。
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