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家康に立ち向かった人物遺産
徳川家康は、浜松を代表する武将として知られていますが、家康が遠州に侵攻してきた際には、敵として家康に立ち向かった多くの人たちの歴史も存在していることを忘れてはいけません。戦国時代末期、気賀中川地域(現:浜松市北区細江町気賀)は、今川氏と徳川氏の勢力の境界地域。当時の戦いの歴史が今も遺されています。
山村修理(やまむらしゅり)
戦国時代末期、気賀領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣だった尾藤主膳(しゅぜん)、山村修理等とともに1567(永禄10)年から翌年にかけて堀川城を築きました。しかし家康の攻撃によって1569(永禄11)年に落城。さらに攻め入った家康に対し、尾藤主膳(しゅぜん)と山村修理は一揆をおこし、地元の男女1500~1600人とともに堀川城に立てこもりました。しかし、1569(永禄12)年一日で落城し、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑され、船で逃れた山村修理は、火に落ちていく堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。
獄門畷
先述したように、1569(永禄12)年、男女1500~1600人は、家康軍に立ち向かい、堀川城にたてこもりましたが、家康軍に攻められ落城。捕虜となった約700人がこの近くで首をうたれ、その首は小川の土手にさらされたと言われています。その場所は、「ごくもんなわて」と呼ばれるようになりました。
服部小平太(中保次なかやすつぐ)
服部小平太は、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで織田信長の家臣として毛利新助らとともに今川義元を討った人物です。その後、この地域が徳川の勢力下になると、小平太は家康の家臣としてこの地を治めました。もともと今川領だった当地域では、小平太に恨みを持つものもあったため、彼は1587(天正15)年長坂の途中で暗殺されてしまいます。この墓は最初二代目中保正によって建てられましたが、七代中安貞が新たに立て直したとされます。また、ここから北へ200mのところに小平太を奉ったとされる宗安寺(そうあんじ)跡があります。
小引佐
浜名湖を眺める小高い丘。姫街道の中でも景勝地として知られる小引佐(こいなさ)は、引佐峠を越えていく古の旅人たちが一息いれて景色を楽しむ場所だったと思われます。近くには旅の無事を祈ったのでしょう。馬頭観音や道祖神がまつられています。しかし激しい戦の時代には、人々はこの景色をどんな想いで眺めたことでしょう。
2012年3月投稿