特集
浜名湖の移り変わり
細江町気賀にある細江神社が地震の神様といわれるようになったきっかけは、大地震で浜名湖一帯が陥没し、津波で荒居にあった角避比古神社が流没。終の栖に奇跡的に細江の赤池に流れ着いた。細江神社の成り立ちと浜名湖のへ変化を『細江神社誌』をもとに紹介する。
明応の大地震で浜名湖は・・・
なぜ淡水湖であったはずの浜名湖が、塩水の混じった汽水湖になってしまったのだろうか。それは今を遡ること500年前、1498(明応7)年9月20日の大地震により、外海に注いでいた浜名川が埋まり、かわりにその東側に新しい口が開いて(今切口)海水が入ることになったからである。
その後も1605(慶長9)年、1707(宝永4)年、1854(安政元)年とたび重なる大地震による大津波により地形が変わり、その被害は湖口付近が最も大きかったと考えられるのである。
その浜名湖を汽水湖に変えてしまった明応の大地震とはどのような地震であったのだろうか。当時の古記録『遠江新居今切旧記』によれば、太古の昔より橋本駅は栄えており、民家が軒を連ねること1000軒、となりの日ケ崎、北山それぞれ1000軒あり、橋本の宿場町であったが、明応の地震の津波ですべて没し、住民もちりぢりになり、わずかに生き残った者が、橋本、日ケ崎の残地を耕し今の橋本(荒居)となった。「この時より浜名湖は永く失われた」とある。
『理科年表』によれば、マグニチュード8.6の大地震であり、浜名湖一帯は地盤沈下により陥没。そのために太平洋より海水が押し寄せることになり、湖北の細江まで津波が到達し、田畑に塩水が入り込むこととなったのである。
津波と共に漂着
さて、この大地震により細江に押し寄せてきたのは津波だけではなかった。浜名湖の河口の橋本に祭られていた「角避比古神社」も流没したが、奇跡的にご神体は村櫛をへて、伊目の十三本松に津浪と共に漂着したのであった。里人は憶岐大明神の地に仮宮を建ててこれを祭った。12年後再び地震による大津波のため、ご神体は気賀の赤池へご漂着された。気賀の里人はこの地に仮宮を建てて祭り、翌月19日に、八王子権現の境内(現在の場所)へ移し、牛頭天王社と称しお祭りすることとなった。以来、牛頭天王社(細江神社)を総氏神とするようになったのである。仮宮のあった所は今でも、東、西仮屋という町名として残っている。
後に新居の里人が角避比古神社のご神体が気賀の牛頭天王社として祭られているのを知り、太鼓を奉納し、祇園祭の日には船をひきつれて参拝することになった。また、新居浜で豊漁の折は、御礼参りと称して気賀に上陸後、街道に魚をまいて町民にふるまったこともあったという。
明治になると廃仏毀釈により仏教用語である「牛頭天王」の称号を廃止し「細江神社」と称し、現在に至っている。
2012年3月投稿
姫街道未来塾瓦版発行人 上嶋裕志