宮澤安太郎みやざわやすたろう
誕生地 | 現:浜松市天竜区龍山町大嶺 |
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生年 | 1889(明治22)年9月24日 |
没年 | 1974(昭和49)年4月3日 |
宮澤安太郎とは
龍山地域発展のため、道路開発や教育の充実、林業の発展などをはかり、多大な功績を残した。
主に県道二俣水窪線(現:国道152号線)の開通、村を貫流する天竜川への架橋、村内の分校の統合などを手がけている。
生涯
1889(明治22)年、磐田郡龍川村大嶺(現:天竜区龍山町大嶺)の宮澤家次男として生まれる。宮澤家は江戸時代に大嶺村名主を務めた旧家。
地元の尋常小学校を卒業後は故郷を離れて浜松中学校(現:浜松北高校)で学び、その後、慶応義塾大学理財科へと進んでいる。
1915(大正4)年、大学を卒業して時事新報社に入社。政治部記者として活躍した。
そして、東京在住中には龍山村下平山(現:天竜区龍山町下平山)の御室家長女と結婚をしている。
しかし、1920(大正9)年に兄の延太郎(龍山村第5代村長)が急死したため帰村し、宮澤家の家督を継ぐ事となった。
1923(大正12)年35歳の時、静岡県会議員に最年少議員として当選。北遠の道路開発事業に取り組み始める。
1924(大正13)年には県議会の副議長に選任され、また、北遠銀行頭取にも就任している。
1931(昭和6)年から1941(昭和16)年まで龍山村第9代村長を務めた。
その後、磐田郡町村会会長、北遠森林組合林業研究会長、県森林組合理事なども務めている。
1974(昭和49)年4月3日に85歳で他界している。
北遠の道路開発
龍山を中心とした北遠地方は急峻な山岳地帯であり、明治頃までの交通手段は山を尾根伝いに歩くか天竜川を舟で行くかしかなかったため、生活・文化・教育といったどの分野においても遅れがちであった。交通の充実は村民の願いであり、宮澤安太郎もまた、このような不便さを感じながら幼少期を過ごした。
そこで、安太郎は県会議員に当選したのを機に北遠山間地域への道路開発推進を決意するが、二俣から水窪に至る区間は特に急峻な地形が続いていたため工事は難航が予想され、反対する声も多かった。しかし、安太郎の精力的な取り組みに加え、1924(大正13)年に県議会の副議長に選任されたことも大きな力となり、この事業に協力する人たちも増えていった。
工事は着々と進み、龍山にも道が伸びてきた最中、日本全土を不況が襲い、この道路開発にも大きな影を落とした。安太郎は2期勤めた県議を辞めて龍山村村長に就任すると、大恐慌ために止まっていた道路開発工事を「失業対策事業」として取り上げ、職のない村人たちに工事にあたらせた。
こうして、1933(昭和8)年に県道二俣水窪線は全線開通し、バスやトラックでの移動も可能となった。
関連項目
参考
『郷土の発展につくした人々』(静岡県教育委員会)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社)
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