中村忠七なかむらちゅうしち
誕生地 | 現:浜松市中区紺屋町 |
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生年 | 1857(安政4)年7月25日 |
没年 | 1922(大正11)年11月15日 |
中村忠七とは
中村忠七は、政治家・実業家として浜松の発展に貢献。鉄道院浜松工場(現:JR東海浜松工場)や煙草専売局(現:日本たばこ産業)の誘致、浜松高等女学校(現:浜松市立高校)や浜松商業学校(現:浜松商業高校)の創立などに力を注ぎ、数々の企業の重役も務めた。
多くの人々から信頼・尊敬され、地域のために最後まで尽くした。
生涯
1857(安政4)年、敷智郡浜松宿連尺町(現:中区連尺町)で道具商を営む中村家の長男として生まれた。幼少期から学問に対して大きな関心をもち、長男でありながら家督を姉に譲り、自身は分家となっている。
1887(明治20)年、30歳の時に結婚して連尺町で商売を始めるが、そちらは主に妻に任せ、自らは社会のために尽くした。
1889(明治22)年に浜松宿が町制施行によって浜松町となると、浜松町会議員を務めるようになる。
1896(明治29)年、浜名郡会議員に当選。さらに1901(明治34)年からは推されて浜松町長に就任した。しかし、それによって家業に手が廻らなくなり、店は赤字続きとなったため閉め、妻だけでも務まる煙草の卸店を始めるようになった。
1902(明治35)年には遠江織物同業組合をつくり、組合長に就任。
煙草専売局の誘致に取り組み、1903(明治36)年に見付専売局浜松出張所が設立。その後、元城町にあった製造所と合併して独立させており、現在の日本たばこ産業浜松工場の前身となっている。
1903(明治36)年9月、県会議員に当選。
1906(明治39)年からは鉄道院浜松工場の誘致に積極的に取り組んでいる。
1912(大正元)年には浜松軽便鉄道株式会社を創立、専務取締役に就任した。また、この頃、浜松商工会議所の副会頭、帝国製帽株式会社(現:テイボー)の取締役、日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ)の監査役なども務めている。
市制施行後、1914(大正3)年には浜松市会議員に当選。1918(大正7)年9月から1922(大正11)年9月までの4年間は浜松市議会議長も務めた。
また、1915(大正4)年に推されて県会議員となり、その後、県会議長の要職にも就いている。
1921(大正10)年からは遠州から信州まで天竜川に沿って通じる遠信鉄道の敷設のため、地形調査を始めるが、途中病に倒れ、1922(大正11)年に他界した。
参考
『ひと・まち・80年、そして未来』(浜松市)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社)
『遠州偉人伝 第二巻』(浜松民報社)
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