近藤用随こんどうもちゆき
誕生地 | 現:東京都 |
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生年 | 1715(正徳5)年 |
没年 | 1781(天明元)年7月11日 |
近藤用随とは
気賀の領主として、1707(宝永4)年に起きた宝永地震による被害からの復興に努めた。
特に、塩害を受けた水田に豊後(ぶんご)国(現:大分県)特産の琉球藺※を植えさせ、のちに特産物として全国に知られるようになった“遠州表”の基盤を作っており、こうした功績をたたえ、用随の死後、領民たちによって細江神社境内に藺草神社が建てられ、祀られた。
※琉球藺(りゅうきゅうい)/七島藺(しちとうい)ともいい、畳表の原料となる
生涯
1715(正徳5)年、旗本近藤貞用(さだもち)の次男として江戸で生まれる。
1730(享保15)年には気賀近藤家を継ぎ、1752(宝暦2)年に領地の遠江気賀(現:北区細江町気賀)へ移る。そして、荒れ果てた気賀の地の復旧に取り掛かる。
1764(明和元)年3月、大阪大番頭を命ぜられ、大阪に住むようになる。
1766(明和3)年5月、大阪勤番を終了し、気賀へと戻る際に豊後国領主より分けてもらった琉球藺の苗を持ち帰った。そして、それを繁殖させ、塩害を受けた水田に移植すると共に、畳表の生産にも取り掛かる。
1772(明和9)年には宝永地震によって塩害を受けた300石余の水田の復旧が完了。
1781(元明元)年67歳の時、病気によって江戸の地で他界した。
塩害と琉球藺
1707(宝永4)年、遠州地方を襲った大地震による津波で、浜名湖沿岸にあった水田は潮水をかぶって大きな被害を受けた。塩害によって何も収穫できない田畑は徐々に荒れていき、年貢と生活苦に追われ、他の土地へと移る者も少なくはなかった。
1752(宝暦2)年に気賀へと移り住んだ領主近藤用随は、こうした気賀の現状を目の当たりにすると、自ら土地の復興に取り掛かった。都田川下流一帯の災害復旧計画を立てて幕府の許可を受けると、防潮堤を築いて海水が入るのを防いだり、都田川下流の途中から南へと流れる新川を掘って水害を防いだりした。しかし、一度陥没してしまった水田は土地が低くなってしまっているため、潮水による害を受ける事が多く、稲が実らないことが多かった。
そんな中、用随は大阪大番頭を命ぜられて大阪に住むようになる。そこで豊後国の領主松平市正(いちのかみ)より豊後国特産の琉球藺が塩害を受けた水田でも生育することを聞くと、琉球藺を分けてもらい、大阪での勤務を終えると気賀へ琉球藺の苗を持ち帰った。
まず自分の庭内にある池へ植えて育て、その後、農家での繁殖へと広げていった。琉球藺は塩害の影響を受けることなく育って立派な藺草を収穫する事ができ、さらにその藺草を使った畳表の生産にも取り組んだ。
その後、気賀領内はもちろん浜名湖岸一帯へと琉球藺の栽培は広がり、畳表の製織は冬の農家の副業として人々の生活を潤した。そうしてつくられた畳表は“遠州表”と呼ばれ、全国的に知られるようになった。
関連項目
参考
『郷土の発展につくした人々』(静岡県教育委員会)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社)
藺草神社境内案内
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