市中心商店街の歴史 しちゅうしんしょうてんがいのれきし
戦後の闇市と復興
第二次世界大戦敗戦後の物不足の中、全国各地に出現した闇市が商業活動の中心であり、人々の生活を支えていた。しかし、その価格は常識を逸脱しており、完全な売り手市場であった。
浜松市内でも板屋町大通りや田町中央通り、当時の遠州鉄道浜松駅から東田町駅にかけてといった場所に多くの闇市が並んでいた。その後1948(昭和23)年に入り、松菱百貨店や棒屋百貨店、各種商品を扱う専門店が営業を再開すると闇市は徐々に寂れ、経済が安定していくと共に消えていった。1947(昭和22)年に3040戸だった浜松の商店数も、1949(昭和24)年に7356戸とたった2年で倍以上に増加している。
1950(昭和25)年頃に電力供給が円滑になり始めると、市内中心部の各商店街ではネオン灯や電飾を設置する動きが広がり、有楽街ではいち早く地球儀型のネオン塔が設置された。その後、有楽街の南入り口に100万円を投じて設置された5色に光る孔雀型の大ネオン塔は、浜松の新名所として多くの見物客が押しかけた。1951(昭和26)年には鍛冶町通りに半アーケードが作られ、連尺や田町の商店街にも次々にネオン灯が建設された。また、それまでのバラック建の店舗に別れを告げ、新設する動きも活発になっていった。
1952(昭和27)年~1953(昭和28)年頃にはデパートや市公会堂ホールを利用したファッションショーが盛んに催されている。
七夕まつりのはじまり
七夕祭りは牽牛星(けんぎゅうせい=彦星)と織女星(しょくじょせい=織姫星)が年に一度、7月7日の夜に会うことを祝う星祭りで、織女星にちなんで裁縫の上達を祈る。そのため織物産地の宮城県仙台市や愛知県一宮市では大々的に七夕祭りが行われており、全国有数の織物産地であった浜松でもこの祭りを取り入れようと、1953(昭和28)年7月1日より7日間、第1回七夕まつりが開催された。
現在でも浜松七夕ゆかた祭りとして続いており、浜松にとって欠かすことのできない夏の行事となっている。
高度経済成長と大型店の出店
高度経済成長期を迎え大量消費時代へと突入すると、大型店舗が全国展開されていき、それは浜松も例外ではなかった。
1960(昭和35)年にほていやが進出すると、それに続いてジャスコマルサや長崎屋が進出、さらに1967(昭和42)年に遠鉄名店ビルが田町にオープンすると、マルゼン、ニチイ、西武百貨店、モールプラザサゴー、丸井など次々に大型店が市中心部へ店舗を構えた。既存の店舗はそれに対抗し、店舗拡張や増床などを行い、売場面積を増やしていった。
そういった市中心部での大型店舗出店や既存店の増床などは1975(昭和50)年頃まで続き、それが落ち着くと、次は郊外に多くのショッピングセンターがオープンしていった。
このように大型店が続々と出店するのに対し、苦戦を強いられた商店街の人々は浜松市商店会団体連絡協議会の結成や、大型店出店反対運動などをおこなっている。
市中心部での大型店撤退
車社会となると、広い駐車場のある郊外のショッピングセンターへと流れる人が多くなり、郊外への大型店舗出店が相次いだ。
一方市中心部では、1990(平成2)年のバブル経済崩壊によって景気が低迷したこともあり、1991(平成3)年2月、22年間もモール街の核となっていたニチイが、翌年1月には長崎屋が店舗の老朽化や狭隘(きょうあい)化などの問題もあり閉店。1994(平成6)年にも丸井や遠鉄名店ビルが、1997(平成9)年7月には西武百貨店が撤退し、2001(平成13)年に松菱百貨店が倒産するなど、市中心部に出店していた多くの大型店が姿を消した。
そのような中、2000(平成12)年にザザシティ浜松の西館が、2001(平成13)年に中央館が新たにオープンしている。
しかし、相次ぐ大型店撤退の影響による中心商店街の空洞化は深刻であり、現在でも問題となっている。
参考
『浜松商店界連盟創立50周年記念誌』(浜松商店界連盟事務局)
浜松といえば
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