青山宗俊10 あおやまむねとし
生年 | 1604(慶長9)年 |
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没年 | 1679(延宝7)年 |
任期 | 1678(延宝6)年~1679(延宝7)年 |
青山宗俊とは
祖父忠成は家康の家臣であり、父忠俊は秀忠や家光に仕えていた。
父が遠江国小林村へ閉門されると宗俊もそれに連座したが、後にそれが許されると、宗俊は出世していき、信濃国小諸(現:長野県小諸市)城主、大坂城代を務めた。その後、浜松城主となったが、わずか1年で他界している。
生涯
1604(慶長9)年に生まれた。父は青山忠俊、母は大久保治右衛門忠佐の娘。
1623(元和9)年に父忠俊が家光の勘気にふれたため、蟄居を命じられると、宗俊も父とともに遠江国小林村へ閉門された。しかし、それが許されると、宗俊は家光に仕え、1638(寛永15)年には江戸城の警備や将軍出行時に護衛をする書院番の頭となっており、武蔵(現:東京都、埼玉県、神奈川県)・相模(現:神奈川県)の両国に3千石を与えられた。
そして、1644(正保元)年には江戸城や市内の警備に当たる大番の頭となり、1648(慶安元)年、信濃国小諸城主となり3万石を領有した。
1662(寛文2)年に大坂城代となり、所領も畿内(現:大阪府、京都府、奈良県)に移され、5万石を有した。
1678(延宝6)年に老齢のために大坂城代を辞職すると、同年8月には太田資次と入れ替わり、浜松城主(所領:5万石)となった。
1679(延宝7)年、76歳で他界。
父忠俊
1578(天正6)年に浜松で生まれた。はじめは秀忠に仕え、後に家光に仕えることとなる。
大坂の陣で手柄を挙げ、老中となり、1620(元和6)年には武蔵国岩槻(現:埼玉県)城主となっている。しかし、男色や女装を好む家光に直言したため勘気にふれ、所領を没収されるとともに遠江小林村へ閉門された。
関連資料
参考
『浜松城と歴代城主』(浜松市博物館)
『浜松市史二』
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