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ホオズキほおずき
浜松のホオズキ栽培
ホオズキは浜松市北区引佐町奥山に住む人が、東京の市場でホオズキが取引されているのを知り、自宅の庭に植えていた株を利用して、1948(昭和23)年に栽培したのが始まり。1953(昭和28)年ごろには西区庄内地区でも栽培されるようになり、1960(昭和35)年ごろからは東京の生花市場とタイアップした出荷が行なわれるようになったため、栽培面積は増加していった。しかし、この頃から引佐町では土壌病害などの発生が起き、栽培されなくなった。
1955(昭和30)年後半に着色技術が確立し、1965(昭和40)年半ばから技術が普及したため、7月のお盆には着色したホロ(宿存がく)数の多い切り花が出荷されるようになり、浅草のほおずき市などの需要に応えられるようになった。また、農家による育種も行なわれ、ホロの色や形の整った「庄内系」が選抜された。
1985(昭和60)年になると、水田転作として再び引佐町で栽培が行なわれるようになったが、一方、庄内地区では変色や奇形などの被害を生じさせるミカンキイロアザミウマの大量発生によって栽培が減少し、生産の主力は引佐町へと移っていった。
1955(昭和30)年後半に着色技術が確立し、1965(昭和40)年半ばから技術が普及したため、7月のお盆には着色したホロ(宿存がく)数の多い切り花が出荷されるようになり、浅草のほおずき市などの需要に応えられるようになった。また、農家による育種も行なわれ、ホロの色や形の整った「庄内系」が選抜された。
1985(昭和60)年になると、水田転作として再び引佐町で栽培が行なわれるようになったが、一方、庄内地区では変色や奇形などの被害を生じさせるミカンキイロアザミウマの大量発生によって栽培が減少し、生産の主力は引佐町へと移っていった。
全国の9割以上の生産量
現在の産地は北区引佐町のミカンキイロアザミウマの発生が少ない北部地区、西区庄内地区、北区都田地区、北区細江町など。浜松市で生産されているホオズキは全国の9割以上を占めており、東京浅草の「ほおずき市」で売られている枝物のホオズキは、そのほとんどが浜松市で生産されている。7月には京浜方面、8月には中京・関西方面へ出荷される。
ホオズキはお盆に各地で仏壇に供えられる他、新しい利用法として、コサージュや花束などへも加工されている。主に切り花として生産されるが、鉢物の生産も1988(昭和63)年ごろから始まっている。
ホオズキはお盆に各地で仏壇に供えられる他、新しい利用法として、コサージュや花束などへも加工されている。主に切り花として生産されるが、鉢物の生産も1988(昭和63)年ごろから始まっている。
参考
『遠州の地場産業』(静岡県西部地域しんきん経済研究所)
『静岡県 農・林・水 産地ガイド』(関東農政局静岡統計情報事務所)
『静岡県 農・林・水 産地ガイド』(関東農政局静岡統計情報事務所)
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