川上嘉市かわかみかいち
誕生地 | 現:浜北区内野 |
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生年 | 1885(明治18)年 |
没年 | 1964(昭和39)年 |
名誉市民顕彰日
1960(昭和35)年7月1日
概要
浜松市初の名誉市民
日本楽器製造株式会社の、山葉寅楠、天野千代丸に続く第三代社長で、「日本楽器中興の祖」と呼ばれる。
優れた事業手腕により、今日のヤマハ株式会社の礎を築きあげ、郷土の産業振興に貢献したことはもちろん、日本産業界に大きな功績を残した。
幼少期~青年期
1885(明治18)年3月1日浜名郡小野口村内野(現:浜北区内野)に誕生した。幼少のころはあまり丈夫ではなく、内気で口数も少なかった。浜松中学校(現:浜松北高校)、東京帝国大学(現:東京大学)工学部を卒業。東大受験では学部の選定に迷ったが、同級生の「将来の日本は応用化学を発達させねばならない」という意見に感心し、工学部に入学した。”布糊の成分について”という卒論は筆頭に評価され、卒業式では明治天皇から銀時計を授与された。
日本楽器社長就任
大学卒業後は東京瓦斯株式会社に入社。翌年には工場長に就任したが、大阪住友伸銅所(後の株式会社住友電線製造所)に引き抜かれて移籍し、1925(大正14)年には同社から分離・独立した住友電線製造所の取締役に41歳で就任した。1926(大正15)年日本楽器製造株式会社が労働争議によって経営悪化に直面していた際、嘉市が社長にと熱望され、思案の末に会社の立て直しに参画することになった。嘉市42歳だった。それからは各種機構改革、経営合理化を進め、経営は安定を取戻し、その後も順調に進化を続けた。
日本楽器の躍進
1930(昭和5)年世界に類のない音響研究室を作り、音の研究をスタート。翌年にはパイプオルガンの製作に技術陣を動員し、1932(昭和7)年に完成させた。1933(昭和8)年にはアコーディオン、1935(昭和10)年には電気楽器マグナオルガンの製作に成功し、日本楽器製造株式会社は近代的な楽器メーカーへと脱皮していった。
1945(昭和20)年終戦後はオルガン、ピアノなどの製作を再開し、その翌年にはアコーディオン、ギターだけでなく、ミシンテーブル等の家具類なども手掛け、戦後復興に邁進した。こうした功労をたたえられ、1946(昭和21)年嘉市は貴族院議員に選ばれ、翌年に当選した。
日本楽器退職後
65歳のとき軽い脳溢血の発作を起こしてからは病気療養をするため1950(昭和25)年に会長となり社長を息子源一に譲った。1952(昭和27)年私財で財団法人川上嘉市育英奨励会を設立して、郷土の学生に奨学の機会を与え、さらに母校である浜松北高校には図書館を寄贈した。
こうして、楽器の都として今日の浜松市の発展をもたらした功績をたたえ、浜松市は名誉市民第一号を贈り顕彰した。
1964(昭和39)年80歳で逝去。
人となり
聖書の一節である「世の中の塩となれ」の言葉が処世訓。
『天才教育論』『独創力の養成論』『川上嘉市著作集』などの著書がある。
短歌や絵画をよく楽しんだ。特に似顔絵が得意で、政財界をはじめ4万点以上の似顔絵をスケッチしており、スケッチブックは約300冊あるといわれる。
長男源一はヤマハ発動機設立者。
参考
浜松市勢要覧
『浜松産業史』
『静岡県歴史人物事典』
『遠州機械金属工業発展史』
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