高柳覚太郎07 たかやなぎかくたろう
誕生地 | 現:浜松市西区舘山寺町 |
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生年 | 1867(慶応3)年 |
没年 | 1937(昭和12)年 |
任期 | 1933(昭和8)年3月17日~ 1934(昭和9)年9月17日 |
高柳覚太郎とは
高柳覚太郎は、浜松市の第7代浜松市長。任期は、1933(昭和8)年3月17日~1934(昭和9)年9月17日。
生涯
1867(慶応3)年10月3日堀江村(現:浜松市西区舘山寺町)の庄屋の長男として誕生。物覚えのよい子になるように、と覚太郎と名付けられた。
父、源四郎は堀江村のためにつくした功績が大きく、舘山寺本堂前に高柳源四郎の頌徳碑が残っている。
覚太郎は小学校、静岡県立浜松中学校でも優等生。それを見込まれ東京法学院(後の中央大学)へ入学した。卒業後は代言人(弁護士のこと)の資格を取り、浜松に開業。その後、代議士、松島廉作の選挙運動をやるなかで政界入りを考えるようになり、32歳で県会議員に当選。県会2期目では歩兵第67連隊の浜松設置に努力した。衆議院議員選挙に当選し、中央政界で活躍するとともに、市町村会議員として市会でも活躍した。
県会、国会、市会の議員を経て、1933(昭和8)年、66歳で市長に就任。在職1年半の短期間に、興誠商業学校設立や都市計画道路事業の推進に尽力した。また、NHK浜松放送局の開局にあたっては、祝賀挨拶の第一声を発している。
1937(昭和12)年12月21日71歳で死去。広沢の浄土寺に葬られた。
人となり
6歳で入った堀江学校では成績優秀で飛び級し、13歳で補助教員を務めた。
不正や汚職を徹底的に究明するときの演説ぶりは迫力があり、「獅子吼え」といわれた。
俳句や字がうまく、よく俳句を作った。
当時総理大臣だった犬養毅宅に訪ねた際、犬養が留守だったとき「いつ来てもいつも留守なる主かな」と詠み、対して犬養は「田舎でも田植時には留守ならん」と返してきたという。
日頃、口数は少なかったが、文字の誤りは神経質なほど小言を言った。
参考
浜松市ホームページ
歴代浜松市長と市政のあゆみ展冊子(浜松市立中央図書館編)
浜松といえば
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