本田宗一郎ほんだそういちろう
誕生地 | 磐田郡光明村 現:天竜区 |
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生年 | 1906(明治39)年 |
没年 | 1991(平成3)年 |
本田宗一郎とは
本田宗一郎は、本田技研工業株式会社創業者。
生涯
1906(明治39)年11月17日鍛冶屋を営む本田儀平、みかの長男として誕生。学業は苦手でもっぱら遊びやいたずらに熱中。地蔵の鼻を削りとったり、はんこを偽造したりしていたずらしたこともあった。
二俣尋常高等小学校時代には、信康ゆかりの寺の清龍寺で、正午を知らせる鐘を30分前について、弁当を早く食べたといわれている。
7歳のとき初めて自動車を見て追っかけをするほど熱狂。飛行機ショーが行われたときには、学校を無断欠席して見に行った。自動車や飛行機にあこがれていた宗一郎は、自動車に関わる仕事がしたいと、学校卒業後自動車修理工場に入社。そこで猛勉強をして技術を習得した。
1923(大正12)年関東大震災のとき初めて自分で自動車を運転。
1928(昭和3)年22歳でアート商会浜松支店を設立。
1934(昭和9)年自分で自動車を作りたいとエンジン部品製造をはじめるが、ピストンリングの強度が足りず、思うようにいかない。そこで浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)の教授に相談し、次第に金属技術を磨いていった。
1945(昭和20)年戦争で全てを失うと、酒造りや塩、アイスキャンデー製造機を開発。
その後、旧陸軍が使用していた無線機の発電用小型エンジンに注目し、これを自転車に付けて走らせることを思いつく。
1946(昭和21)年に発売を開始したところポンポンと呼ばれて大評判となった。
さらにエンジンを自ら開発し1947(昭和22)年にホンダA型を発表。
1948(昭和23)年本田技研工業を設立しオートバイエンジン製造をスタート。
1949(昭和24)年宗一郎の参謀といわれる藤沢武夫が入社。
1950(昭和25)年車体からすべてを開発したドリーム号を発表。
1961(昭和36)年自ら開発したオートバイでオートバイレース(イギリス・マン島TTレース)優勝
四輪自動車開発にも成功し、1965(昭和40)年世界最高のレースで優勝した。
1973(昭和48)年シビック発売。その翌年現役を引退。
1977(昭和52)年「科学技術を、人間の幸福のために役立てたい」という宗一郎の想いから本田財団を設立。
1991(平成3)年死去
人となり
現役時代は工場の見回りをするのが日課
「ばかっつら~!」と社員を叱り飛ばすことは日常茶飯事だったが、それも「俺にできるんだからお前にもできるはずだ」という期待があるから。
そうして鍛えられた社員が重役へと成長していった。
仕事を離れたら社員に自分を社長でなく「本田さん」と呼ばせた。
人を分け隔てすることなく付き合う人物。
寝ていても、思いついたことはすぐにメモを取るため、枕元には常にメモが置かれていた。
戦後、モノが何もないとき宗一郎はセメントを練って台所の横に洗い場を造った。ドラム缶の五右衛門風呂も自分で造り、それを使って蒸し納豆を作っていた。
本田宗一郎の手はハンマーやカッターによるキズがいっぱい。
仕事を引退してからはゴルフや絵画に夢中になった。絵を描き始めて集中すると他にかまわなくなり、妻が「ごはんですよ」と声をかけると「うん」と返事はするものの、そのまま何時間も絵に集中していたという。
ゴルフでは常に賑やかで「口でするゴルフ」と言われていたほど。
待ち時間にスケッチをすることもあった。
人間は失敗するもの。反省して次に進んでいくことができる。
父・儀平の言葉を心にきざんでいた。
「職人としいうのは、物を売ったら最後まで責任をもたねばならん。作りっぱなし、うるっぱなしでは、そのうち注文がこなくなるのだ」、「お金のために働くのではない。よい仕事さえしていれば、自然にお金を払ってもらえるものだ」、「時間を大切にするんだぞ。時間を有効に使うか無駄にするかで、人生は決まる」など。
参考・見学
書籍
空とぶオートバイ 本田宗一郎物語
施設
天竜市立光明小学校資料室
本田宗一郎ものづくり伝承館
浜松といえば
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