高柳健次郎たかやなぎけんじろう
誕生地 | 現:浜松市東区安新町 |
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生年 | 1899(明治32)年 |
没年 | 1990(平成2)年 |
高柳健次郎とは
高柳健次郎は、日本のテレビ放送実現に貢献した人物。
世界初のテレビ実験が成功したのが浜松。その偉業を成し遂げたのが健次郎であり、「テレビの父」と呼ばれる。
生涯
1899(明治32)年浜名郡和田村安間新田(現:東区安新町)に太作とみつの長男として生まれる。
幼い頃はやせて病弱で勉強も運動も苦手だったが、苦手な算数と理科も恩師のおかげで徐々に好きになり向上し、やがて教師になることを夢に勉学に励んだ。
静岡師範学校(現 静岡大学教育学部)に進み、蛍光発光に強い興味を持った健次郎は東京高等工業学校(現 東京工業大学)に進学。1921(大正10)年に卒業すると教師の道へ進んだ。
1923(大正12)年大学時代に立ち読みしたフランス雑誌に、「未来のテレビジョン」というマンガを見つけ、「声が送れるなら映像も送ることができるはず」と、テレビ研究に取り組む。
1924(大正13)年浜松高等工業学校(現 静岡大学浜松キャンパス)の教授となった健次郎は学校にテレビジョンの研究をしたいと申し出た。当時まだラジオ放送も始まっていない時代、驚かれながらも学校側は研究準備を整えた。ここで「無線遠視法(テレビジョン)」研究がスタート。無線遠視法とは健次郎によって名づけられた。
苦労の連続の末、1926(大正15)年12月25日の夜、世界ではじめてブラウン管に「イ」の文字を映し出すことに成功した健次郎は、機械方式の限界を見抜いて、電子方式に挑戦し、1930(昭和5)年テレビ撮像管を発明。昭和天皇にテレビジョン実験を披露した。
2年後の1932(昭和7)年には走査線100本の画像の研究用実験放送で受信に成功。さらに1935(昭和10)年アイコノスコープによる撮像方式を取り入れ、走査線220本の全電子方式テレビジョンを完成させた。東京オリンピックのテレビ中継が計画され、健次郎はNHK技術研究所で研究を進め、1938(昭和13)年には現在のテレビ規格に近い走査線数441本毎秒25枚のテレビ放送システムを作り上げたものの、その後戦争のため計画は中断。戦後テレビ研究を再開したのは、1946(昭和21)年日本ビクターに入社してからとなった。
1952(昭和27)年、戦後のテレビ放送方式を、アメリカ式の6メガヘルツを採用するか、未来のカラー放送を視野に入れて髙栁が推奨する7メガヘルツにするかの論争が起こった。結果はアメリカ式にこだわり6メガヘルツが採用されることになった。
その後、健次郎は1953(昭和28)年のテレビ本放送実現を支え、また1959(昭和34)年には世界に先駆けて、2ヘッド方式のビデオテープレコーダー※を発明した。
※録画と再生をする2つの機構をつけたビデオテープレコーダー。
さらに1960(昭和35)年2ヘッドカラーVTRを開発。これまでの実績から1981(昭和56)年には文化勲章受賞した。
1984(昭和59)年健次郎は母校の和田小学校を訪れて講演。「人それぞれ、よいところがあり、その人としての役割がある」と子供たちに語り、色紙に「天分に生きる」と書いて贈っている。
1988(昭和63)年日本人で初めてアメリカSMPTEの名誉会員に推挙されたが、その二年後の1990(平成2)年91歳で逝去した。
その後、2009(平成21)年11月髙栁健次郎の電子式テレビジョン開発業績に対してIEEE※アメリカ電子学会からマイルストーン賞が授与された。
※IEEE(米穀電気電子学会)が電気・電子技術や関連分野の歴史的偉業に対して認定しようと1983(昭和58)年に制定された賞。
人となり
テレビの開発では、「浜松にいる母親に東京でやっている歌舞伎をみせてあげたい」という母思いの気持ちが大きな力になっていた。
好きな言葉
「人にはそれぞれ才能がある。それを生かして世の中のためになるような人間として生きること」。
「こつこつ努力の大切さ」
「10年先、20年先を目指せ」
「幸運の女神には前髪があるが、後髪がない」幸運は後ろから追いかけて捕まえようとしても捕まえられない。前から待ち構えて前髪をつかめば捕まえることができる。
「感謝」 この言葉が健次郎最期の言葉だったという。
関連
健次郎の弟子、堀内平八郎
参考・見学
書籍
『静岡県歴史人物事典』
『浜松ものづくり人物伝』
施設
浜松といえば
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