岡本巌おかもといわお
誕生地 | 現:東京都 |
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生年 | 1867(慶応3)年3月14日 |
没年 | 1941(昭和16)年6月16日 |
岡本巌とは
岡本巌は、教育者、私立西遠女子学園創始者。
生涯
1867(慶応3)年3月14日江戸小石川(現:東京都)に住む徳川家の旗本の次男として誕生。幼名は岩次郎といった。
大政奉還のため、1869(明治2)年に慶喜を追って父は家族を連れて静岡へ移った。三方原で開墾生活をするが、生活は思うようにならず、母は離別して実家へ戻り、父は浜松で紙すきなどで生活していた。岩次郎は幼少期からとても優秀で、また継母が生んだ妹3人の子守もよくする子供だった。
1882(明治15)年岩次郎は補助教員になると、そこで教育の仕事をしたいと切望し、さらに猛烈な勉強を開始。1889(明治22)年には教員免状取得した。
その後、岡本家へ婿入りして名前を岩次郎から巌に改名した。
1898(明治31)年浜松女子尋常高等小学校に勤めたとき、「日本人は女子教育がおろそか。妻となり母として一家の経済を守り、師弟のしつけをする大きな役割なのだから、こんなことではいけない」と考えた。巌の妻、きん子も東京の渡辺裁縫女学校に入学し、夫婦互いに中学教員免状をとるために勉強した。
1906(明治39)年浜松女子高等技芸学校設立認可を文部省に申請し、きん子が校長に就任。
1911(明治44)年には私立浜松実科高等女学校と組織変更し、巌が自ら校長になったころには、入学者は毎年数を増やしていった。巌夫婦には子供がなかったため、富郎を養子にしている。1919(大正8)年、平田町に浜松淑徳女学校を、1923(大正12)年に佐藤町に西遠女学校を設立した。そして1932(昭和7)年生徒減少傾向の中、校長を養子の富郎にゆずるまで、校長として学園の基礎を築き、校長の座を譲ってからも、「老校長」と呼ばれ新校長を支えた。
家庭的な教育をと考え、家庭寮をつくり、日本的女子の精神教育を進め、修身堂で自ら教えることで評判となり1932(昭和7)年県知事から社会事業功労者として表彰され、1933(昭和8)年浜松市長から教育功労者表彰、1934(昭和9)年には静岡県教育界から教育功労者として表彰された。1937(昭和12)年生徒たちが中心となって巌の銅像を建立。1941(昭和16)年6月16日76歳で逝去。成子町の法林寺にまつられている。
人となり
よく勉強をし、字もうまかった。
「私はいつも毎日毎日を年の初めの元日だと思っております。元日ならば誰でもその行動を次長するし、少しくらい腹の立つことがあっても今日は元日だからと我慢して笑って済まされます。ですから、毎日365日を元日の心構えで暮らすことが一番いいことだと思います」
狩猟が趣味で珍しい小鳥や小動物をとると剥製にして標本にした。
漢詩、和歌を作り雅号を「素堂」といった。
生徒の父兄で出征する人がいると和歌を書いて送った。
参考
『遠州偉人伝第一巻』
『静岡県歴史人物事典』
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