井上延陵いのうええんりょう
誕生地 | 現:宮崎県 |
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生年 | 1816(文化13)年 |
没年 | 1897(明治30)年 |
井上延陵とは
井上延陵は、1868(明治元)年徳川幕府の崩壊後、浜松城代として赴任。上新町から浜名湖に通じる運河をつくり、職を失った武士救済のため授産場を起こし、三方原に茶園を開くなど功績を残した。
生涯
1816(文化13)年日向国(現:宮崎県)生まれ。武士の父と呉服商家の娘である母の間に生まれたが、商家の母は井上家に入ることが出来なかったため、八郎は母の実家の呉服屋で育つ。本名八郎、清虎ともいい、延陵は55歳以降に改名。豪商屋敷に下男奉公し、塾で学び、武術や馬術も身につけた。全国武者修行の旅で腕を磨き、念願の父とも再会した。母は父と同居を許されていたが、八郎が戻る二日前に亡くなっていた。それは1846(弘化3)年八郎31歳のときだった。
八郎は34歳で芳子17歳と結婚。1856(安政3)年徳川幕府は江戸に講武所という軍事大学校のようなものをつくり八郎は教授に命じられる。
1867(慶応3)年大政奉還。八郎は徳川家臣の一部「彰義隊」の説得にもあたったが聞き入れられず数日の戦。敗れた彰義隊の残兵は「八郎の配下」といえば命を救われたという。
八郎も幕臣の中枢として徳川慶喜に従い駿府へ。その後1868(明治元)年浜松城代となり、妻、長女、養子に迎えた妻の弟を連れて浜松へ移った。
職の無くなった武士救済のため、武士やその家族のため元魚町から成子町にかけて広大なバラックを建て職業教育を開始。傘、提灯の製造、紡績織物業等を身につけさせたり、三方原の開墾事業を勧めたりした。このために開けた茶園と耕地が百里園である。
1870(明治3)年浜松城代改め静岡藩浜松勤番組組頭となる。
東海道旅行者のため、地方物資輸送のため協力をあおいだところ、近隣の庄屋たちも協力し工事はスムーズに進み、半年で浜名湖の水が上新町まで通じることに。井上八郎、田村弘蔵の功労をたたえ、井ノ田川堀割と命名。一般には堀割運河といわれた。
この完成で浜松から約4時間で湖西まで歩かずに行くことができると大盛況。東海道鉄道開通までにぎわった。
1871(明治4)年11月20日、県が置かれることになり林厚徳が赴任。八郎は56歳で名前を延陵として悠々自適の生活に入った。1878(明治11)年、静岡県最初の国立銀行である第二十八国立銀行設立に尽力し頭取に就任したが基盤を築き3年で後進に譲った。
1886(明治19)年延陵は「浜松は家康が名をなしたところだというのに家康を祭る神社さえない」と曳馬古城跡に東照宮の支社を築き、家康が愛していた八幡太郎の霊像を迎えて安置した。
その後、東照宮の土地、社殿、方物、備品など一切を報徳社へ譲り、自らは東京湯島の天神町に移り1897(明治30)年82歳で亡くなった。
東照宮は1945(昭和20)年の戦災で焼け、石の鳥居と石畳のみが残ったが境内の彰徳碑は昔のままそびえている。
人となり
天竜川の洪水や堤防決壊の際には私財を出して炊き出しをしたり小屋を建てたり、また富豪の家から義損金を集めたりして救済に尽力した。
参考
『遠州偉人伝第一巻』
『静岡県歴史人物事典』
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