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特集

高度経済成長期の浜松~「なつかしの市政映画」にみる発展の実像

冨田晋司
 
懐かしい高度成長期の“昭和”(昭和30~40年代)
 西暦は2010年を過ぎ、「平成」も20年を超えた今日、「昭和」を懐かしむ風潮は益々盛んである。「昭和」とひと口にいってもその歳月は60年を超え、日本の歴史上250を数える元号中、2位の明治を大きく引き離して最長、太平洋戦争を画期として「戦前」「戦中」「戦後」に区分されることも多い。太平洋戦争の結末を知る現代からみれば(当時の人びとがどのように感じていたかはともかく)、敗戦への道をひたすらたどる戦前はいかにも暗い印象だが、それとは対照的に戦後、それも終戦から10年以上が経過し、現在の中国の如く二桁の経済成長を遂げていた昭和30年代から40年代の姿は、個々人がその時代をどう過ごしていたかを抜きに(あるいはその時代を知らない者からみても)何ともいえない明るさと鮮やかさをもって現代のわれわれに迫るものがある。それは確かに”懐かしい”光景ではあるが、単なる「懐かしさ」ではなく、「何かと厳しい」日々を過ごす現代の人々の錯綜したノスタルジーが見え隠れする
 
映像版「広報浜松」は昭和34年から~野口公園、元城プール、伊勢湾台風の被害
 この時代の浜松の姿を確かに捉えた映像が残る。「なつかしの市政ニュース」として現在、市のホームページ(トップページの「動画チャンネル」から閲覧サイトに接続可能)でもみることができる「広報はままつ」の映像版である。最も古い映像は昭和34年(1959年)10月の「市政ニュース1」で、「よい子の競技会」、「成人学校開校」、「防空ごう埋立」、「全日本高校選手権水上大会」などのトピックスが取り上げられ、活き活きとした映像ドキュメントとして描き出されている。市民の活動の場も今とは大きく様相は異なり、「よい子の競技会」では「野口公園バレーコート」(現在は静岡文化芸術大学)、「全日本高校選手権水上大会」は「元城プール」(現在は浜松城公園の芝生広場)がその舞台だ。続く「市政ニュース2」には昭和34年9月に襲来した伊勢湾台風の被害の模様が伝えられる。浜松では特に三方原地区の被害が大きく、市からの見舞金や市民からの救援物資が支給された。ニュースの最後は力強い励ましの言葉で締めくくられる。曰く“再び楽しい平和な家庭を築くのです!”。
 
市政ニュース1 市政ニュース2
 
市制50周年、次々とオープンする立派な公共施設
  2011年は浜松市制施行100周年、記念事業としていくつかのイベントも開催されるが、高度成長とはおよそ異なる現在の経済状況、財政難の時節柄、100周年を記念しての新しい公共施設、すなわちハコモノのオープンなどほとんど皆無という状況だ。これに対し50年前、つまり「市制50周年」は今とは事情が大きく異なっていた。市民会館(1961年竣工 現はまホール)、児童会館(1962年竣工 旧公会堂を改装、現在は解体)、体育館(1963年竣工 現在は解体)と市中心部に大型施設のオープンが目白押しである。市政ニュースでも“建設ラッシュ”は華やかに取り上げられている。市民会館のオープンでは鶴田浩二の歌謡ショーやNHK-TVの公開番組「それは私です」の収録などがあった。体育館のオープン記念事業は実に4日間に及び、体操やバレーの国内トップ選手(翌年は東京オリンピック)の模範演技があった様子が伝えられる。50周年と100周年、街の様子は確かに隔世の感があるが、最も大きな違いは時代の“勢いの差”か。
 
市政ニュース24 浜松市体育館誕生
 
発展する浜松が抱える新たな都市問題~ゴミ、下水道、交通、住宅
 高度経済成長期は日本全体で人口が農村から都市へ大移動した時期である。産業、とりわけ製造業の発展によって都市部に新たな雇用の場がつくり出され、人の集積によってサービス業の需要も拡大した。浜松のみならず、多くの地方都市でも人口が短期間に膨れ上がったが、人が集住すれば様々な都市問題が起こるのは必然、もちろん浜松も例外ではなかった。家庭や工場、事業所でのゴミ処理のルール徹底や法規制の緩さもあって、市政ニュースの映像に映る馬込川の河川敷は見るも無残なゴミの山である。昭和30年代の浜松は下水道もほとんど整備されておらず、昭和37年1月の市政ニュース21では新川や馬込川に汚水が流れ込み、悪臭の原因となっていることが報じられている。
この時期、経済の急成長、車の増加とともに交通渋滞、交通事故の問題も深刻の度合いを増していた。当時の映像を見れば「これが日本?」と思うような光景、すなわち幹線道路にはいわゆる“路駐”の車がずらり、渋滞する車やバイクの間をぬう様に横断する歩行者、中心部でも信号機の設置は今より遥かに少なく(スクランブル交差点などまったくあり得ない)、「交通戦争」という今では死語となった言葉が映像を通してよみがえる。この状況に比べれば、現代の街は何と整然としていることか。かつてはこんな危険な街だったのか、という意外の感とともに、現在の中国や東南アジアの都市に匹敵する活気と勢いを感じるのも正直なところであろう。
 当時、東海道線は高架でなく(高架化の完成は昭和54‐1979‐年)、踏切をはさむ南北の往来は極めて不便であった。1964年1月の市政ニュース29によれば「平田踏切」(中区平田町)は「1日に435本の列車が通り、合計11時間も遮断されて」いた、まさに“開かずの踏切”。浜松駅の東西に1か所ずつ東海道線を潜り抜けるトンネルが作られていたが、このトンネルは車1台がやっと通れる幅で、歩行者は壁にへばりつくように歩くしかない。現在のこの付近、かつての活気はなくなったが、高架化によって少なくとも危険と不便は消えた。
 浜松は戦災により中心部の多くの住宅が焼失したが、昭和30年代後半からは経済成長による人口増加もあって、住宅需要が大幅に増加、供給が追い付かない状況となっていた。市政ニュースには中田島、遠州浜、さぎの宮など数箇所で市営団地が続々と建設されている様子が描かれている。今にして思えば次々に作られる「団地」は人口増加、都市発展の象徴だったのだ。
 
 高度成長期の浜松の姿、急激な人口増加に伴う諸問題に向き合いながらも街は活気にあふれ、若者、子どもの姿が目立つ。当時の日本の高齢化率はなんと6%程度だったのである(2009年は推計で22.7%)。
 
市政ニュース21 市政ニュース29
 
※浜松市広報課(当時)が制作した市政ニュースは浜松市のホームページのほか、浜松市博物館の展示室でも放映されています。昭和の浜松のリアルな姿を是非ご覧下さい。 
 
 

静岡文化芸術大学 文化・芸術センター 調査員 冨田晋司