特集
浜松の今日までの産業発展の経緯、いわゆる「モノづくり」の原点とは何かを推測してみると、この地域の自然環境の与えた影響は大きい。かつて繊維、楽器、輸送機器が三大産業とされてきたが、輸送機器の製造技術は、織機やピアノの金属フレーム製造で培った鋳造技術があってこそだし、織機、ピアノの製造技術は、木工技術が不可欠であり、それには木材とそれを加工できる職人がいればこそだ。つまりは、浜松地域が豊かな森林にめぐまれ、伐採した木材を輸送できる天竜川があり、それを加工する腕利きの大工がいたことが、原点であったと思う。
また、交通網が発達する前には、四方を大自然に囲まれていたことで地域が閉鎖的だったため、よりハングリー精神が醸成されたのではないかと想像する。もちろん、遠州の空っ風も大いに影響していることだろう。
仮に天竜川の河口や浜名湖が大きな湾を形成し港ができていたならば、港町として輸入品や西洋文化を直接的に受け、“独自の発想でモノをつくる”ことはなかったかもしれない。つまり地域の先進の気風を現す“やらまいか精神”を持つことはなかったのではないだろうか。
あくまで空想の域を出ないが、徳川家康が築城した浜松城は、浜松藩政300年の間に25代の城主が誕生し、出世していく城主が多かった城として有名だ。つまりは、城主が度々変わるのはあたりまえで、それに対応はしなくてはいけないし、あまり頼ってもいけないという気風が生まれた。よく浜松人は、“熱しやすく冷めやすい”“新し物好きで、過去を振り返らない”“よそ者を受け入れやすい“などと言われるが、これは世間を生き抜くために身についた浜松人の処世術であるのかもしれない。
大自然の恵みを活かし、外部からの大きな影響を受けず、新しいものをすんなりと受け入れ、貪欲にモノづくりをしてきた浜松。しかし、生産拠点は市外、国外へと移って行った。これからの時代に浜松は、大いなる可能性を秘め、次なる進化をどうとげるのか?!モノづくりで培ったノウハウ、つまりは技術や経験、人材、資産・・・はどう活かされるのか?!「モノづくり」の原点を見つめ直してみると、とても楽しみになってくる。 (2010年10月投稿)