戻る

浜松の水泳競技はままつのすいえいきょうぎ

水泳競技のはじまり

1900(明治33)年から2年間、浜松中学校(現:浜松北高)の在校生と卒業生の有志20数名が現在の湖西市にあたる浜名湖西南岸で、浜松において初めての組織的な水泳訓練が行われた。
その後、1901(明治34)年に遠州学友会(浜松中学OB)水泳部、1902(明治35)年に浜松中学水泳部、1904(明治37)年に浜松商業学校(現:浜松商業高)水泳部、1905(明治38)年に掛川中学(現:掛川西高校)水泳部と相次いで創部され、それぞれ弁天島付近で水泳に取り組んでいる。1916(大正5)年にはこの4つの水泳部によって浜名湾游泳協会が設立された。
浜名湾游泳協会では当初、浜名湖を利用して遠泳を中心とした指導や講習会が行われており、協会出身者が国内各地の大会で活躍をみせている。また、水泳競技日本初参加となる1920(大正9)年にアントワープで開催された夏季オリンピックには、浜松中学出身の内田正練が出場しており、内田正練のオリンピック出場を機に日本にも近代泳法が導入され、日本水泳界に大きな一歩をもたらした。また、1921(大正10)年には浜松の素封家長谷川鉄雄が弁天島の別荘を解放し、100m×30mの塩水プールを建設寄贈しており、同年8月には第1回全国競泳大会が開催された。
その後も各地で開催された大会において、多くの浜松勢が好記録を残している。1924(大正13)年のパリオリンピックでは野田一雄が出場、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックには宮崎康二や片山兼吉らが代表選手に選ばれ、宮崎康二は100m自由形と800mリレーで金メダルを獲得し、1936(昭和11)年のベルリンオリンピックでは杉浦重雄が800mリレーの選手として金メダルを獲得した。

 

戦後の活躍

戦後、1946(昭和21)年には各地で大会が開催されている。特に雄踏町(現:西区雄踏町)出身の古橋廣之進の活躍は目覚しく、自由形で数々の世界記録を樹立しており、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれたほどであった。古橋は戦後日本初参加となった1952(昭和27)年開催のヘルシンキオリンピックに主将として参加し、その後は日本水泳界のリーダーとして活躍をみせている。しかし、1955(昭和30)年以降は市内選手の目立った活躍が少なくなり、県内においても中部地域の選手に遅れをとるようになった。
その後、1980(昭和55)年の国体で興誠高校(現:浜松学院高校)出身の倉田省吾が板飛び込みで優勝、1982(昭和57)年の国体でも高飛び込みで優勝するなど、徐々に復活の兆しが見えており、1992(平成4)年のバルセロナオリンピックに浜松商業出身の漢人陽子(かんどようこ)が出場し、メドレーリレーで入賞を果たしている。

 

市営元城プール

1949(昭和24)年にロサンゼルスで開かれた全米屋外水上選手権大会において、古橋廣之進が次々と世界新記録を樹立。浜名湾游泳協会では「古橋選手記念バッジ」を販売した利益なども含めた100万円を浜松市に寄付しており、これを基金にして1950(昭和25)年に市営元城プールは完成した。
完成記念として開催された日米親善水上大会には、古橋廣之進のほかアメリカのフォード・コンノなどといった当時の世界的選手が招待された。1955(昭和30)年には飛び込みプールが併設され、日本水泳連盟の公認コースとなっている。
その後、全国大会の会場として使用されたり、児童プールが建設されたりと多くの市民に親しまれたが、老朽化に伴い取り壊され、跡地は浜松城公園内の芝生広場となっている。

 

関連項目

浜松市体育協会

 

参考

『静岡県体育史』(静岡県体育協会)
『静岡県体育史』1988~1997(静岡県体育協会)
『静岡県体育史』1998~2007(静岡県体育協会)
『浜松市体育協会史』(浜松市体育協会)
『ひと・まち・80年、そして未来』(浜松市)
『静岡県昭和人物誌』(静岡新聞社)

 

 

浜松といえば
おすすめ記事

徳川家康 浜松まつり 浜松城 浜名湖 中田島砂丘 弁天島 湖北五山 うなぎ 浜松餃子 三ヶ日みかん  ドウマンガニ ガーベラ 楽器博物館

  

iPhone アプリ

地図編集アプリ 「はままっぷ」

 

edited by 浜松情報BOOK