気賀林きがりん
誕生地 | 現:浜松市北区細江町気賀 |
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生年 | 1810(文化7)年6月7日 |
没年 | 1883(明治16)年4月23日 |
気賀林とは
地域開発に力を注ぎ、三方原開拓や堀留運河の開鑿(かいさく)などを手がけている。特に三方原開拓では、荒れ果てて作物の育たない不毛の地であった三方原の台地に茶園「百里園(ひゃくりえん)」を造成した。
また、静岡県下で初の国立銀行である第二十八国立銀行の設立にも関わり、最高出資者として副頭取に就任している。
生涯
1810(文化7)年、引佐郡気賀村(現:北区引佐町気賀)の旧家竹田家に生まれ、後に気賀家の養子となる。幼名を賀子治(かねじ)、大人になってから半十郎や岩井宜徳、岩井林右衛門と名乗り、1871(明治4)年に気賀林と改名した。
1829(文政12)年、19歳の時に地元特産の藺草(いぐさ)を買い集めて江戸で売る商売を始めると、畳表問屋として成功し、その後さらにロウや昆布の売買も手がけて多くの財産を手にする。1859(安政6)年時点で財産は、米が151石(※大人1人が1年間で消費する米の量は1石ほど)、お金が11,000円にものぼっており、林はそれらを貧しい人々や寺に寄付していた。
晩年になり、余生を社会事業に打ち込む決意を固めると、壮年より夢みていた「三方原開拓」「堀留運河の開鑿」「信州(現:長野県)から気賀への道をつくる」といった3つの事業を起こす事を1869(明治2)年4月、奉行所に願い出た。そして、三方原の開拓が認められると、三方原開拓係に任命されている。
1873(明治6)年には浜松県の県令(現在の知事)林厚徳(はやしあつのり)によって三方原の茶園の園長に命じられた。
1875(明治8)年65歳の時、三方原へ住居を移して茶園の造成・管理に全力を尽くすようになり、100町歩(100ha)もの茶園「百里園」を造成。1876(明治9)年5月には浜松県令を招き、初めて新茶の芽を摘むことができた。
1877(明治10)年には百里園茶製所という大規模な製茶工場を建設。また同年、生活困窮者のために三方原救貧院をつくり、生活の面倒をみている。
1883(明治16)年、73歳で死去するまで地域の開発と振興に尽した。
気賀林と三方原開拓
三方原開拓係となった気賀林は、まず開拓者のための住宅建設など生活環境を整え、明治維新によって職を失った800余りの士族を三方原へ入植させた。しかし、当時の開拓は人力のみが頼りで根気のいる仕事であったため、多くの士族は転職していき、当初の計画は大きく狂ってしまった。
1871(明治4)年に廃藩置県が実施されると、浜松県の県令に林厚徳が就任。県令は三方原開拓を重要視して力を貸すようになり、県令にお茶の栽培を勧められた林は、横田保(よこたたもつ)や間宮鉄次郎(まみやてつじろう)らと共に茶園を開くことに努めた。そして、1874(明治7)年4月に初めてお茶の種を台地へと蒔いた。
酸性土壌のやせ地であった三方原台地で、米ぬかや醤油カスを肥料にしたり、稲わらを茶園に敷いて茶を寒風から守る工夫をしたり、大変な苦労を重ねてお茶の栽培を進めた。そして100ha、60万株の大茶園が出来上がり、茶園1haの畝を延長すると一里(4km)であることから、茶園は「百里園」と命名された。
さらに、生葉だけでなく製品としてのお茶を国内外に送り出すことを考えた林は、1877(明治10)年に製茶工場を建設。1879(明治12)年に横浜で行なわれたお茶の共進会では二等賞に輝き、三方原と百里園の名は全国に知られるようになった。
その後の明治末期から大正にかけての開拓や第二次世界大戦後の大規模な開拓、三方原用水の大事業にも気賀林の開拓魂は受け継がれ、今日のような緑豊かな台地が築かれていった。
気賀家と横田家
横田家は長上郡内野村(現:浜北区内野)の名流であり、江戸末期から明治期にかけては地方財閥として名を馳せ、気賀家とは姻戚関係にあった。
横田保も気賀林と共に地域の開発にあたり、百里園の創設にも力を貸している。
気賀家と産業界
21代気賀半十郎(気賀林・宜徳)、22代気賀半十郎(宜辰)、23代気賀半十郎(宜蕃、平野又十郎の実兄)の3代にわたり浜松の産業化に関わっている。
参考
『明日も元気!はままつ農業』(浜松市役所)
『ひと・まち・80年、そして未来』(浜松市)
『見る読む 浜松歴史年表』(羽衣出版)
『ふるさとの歴史シリーズ 浜松・浜名湖周辺』(郷土出版社)
『郷土の発展につくした人々』(静岡県教育委員会)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社)
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