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舞阪大太鼓祭りまいさかおおだいこまつり

開催地 岐佐神社(浜松市西区舞阪町舞阪)
時期 旧暦9月14・15日
舞阪大太鼓祭りとは

旧暦9月14・15日に岐佐神社で行われる祭礼で、町内安全と豊漁を祈願する。
1648(慶安元)年に記された岐佐神社の縁起※に岐佐神社の祭礼が初めて記されており、そこから考えても350年以上の歴史のある祭り。
祭りはすべての開始・終了時間などが厳格に決められており、支部長の指令でサンドノツカイ(三度の使い)と呼ばれる青年3人が各会所へ行き、3回同じ指令を伝えるなど古い祭りの民俗を伝えている。
現在でも旧暦が守られているのは、本祭りの行われる旧暦15日前後が大安吉日で満月となり、漁師たちが月の明かりを避けて旧暦9月13~18日くらいの漁を休むため。また、電灯などのない時代には提灯の灯りのみが神輿(みこし)を曳く際の頼りであり、夜道を照らしてくれる月の明るい晩は都合が良かった。

※縁起(えんぎ)/社寺・宝物などの起源・沿革や由来などが記されたもの

岐佐神社の祭神は蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)であり、古事記には死んでしまった大国主命(おおくにぬしのみこと)を治療し、蘇生させた女神として記されている。
その女神は、旧暦9月15日の早朝、岐佐神社から東方に1kmほど離れた稲荷山へ出かけ、夕刻から夜にかけて満月の中を帰路に着くといわれている。祭りでひかれる神輿がそれを先導したり供奉(ぐぶ)したりしている。

 

祭礼順序

14日の宵祭りでは各町内で大太鼓が練られ、終了後、それぞれの場所から岐佐神社の境内へと太鼓屋台が運び込まれる。
15日の本祭りでは、岐佐神社境内で一斉に大太鼓が練られ、その後、神輿や太鼓屋台は境内から降ろされて稲荷山へと向かう。その道中、行き帰り各1ヶ所ずつオヤスミノヤド(お休みの宿)が用意されている。ヤドに選ばれるのは、神輿が通る道沿いに建ち、家の前に神輿が納まるだけの余裕がある、その年に新築された家。ヤドを出発し稲荷山へ到着すると、各町は太鼓の音を競い合う。その後、再び稲荷山より出発し、ヤドで休憩をしてから岐佐神社へと戻る。各町の太鼓屋台も神社境内へと運ばれると、盛大に大太鼓が打ち鳴らされて祭りは最高潮を迎える。祭り終了後、大太鼓は屋台から外され、棒に吊るされて各町へと戻って行くが、その道中はバチを逆さに持ち、静かに打ちながら進んでいく。
神輿が岐佐神社を出るときやオヤスミノヤドへの出入りなど、神輿が移動する際には必ず木遣り(きやり)が唄われるのが決まりとなっている。

 

衣装

白色で丸首長袖の綿シャツに、黒の腹掛け、黒の股引きを着て、足元は黒足袋に白緒草履。太鼓を叩いていないときにはさらに法被を着る。
また、中学1年生だけは仮装することとなっており、これは戦前から行われている。

 

大太鼓

現在は大太鼓祭りとして知られる岐佐神社の祭礼だが、祭りが始められた当初、太鼓は祭囃子(まつりばやし)の一楽器だったためそれほど大きくはなく、明治時代では直径2尺(約61cm)ほどだった。その後、囃子の中心に太鼓が置かれるようになり、1930(昭和5)年に西町が直径6尺弱(約180cm)の太鼓を新調したのを皮切りに、各町が競って大太鼓を作るようになったという。そして、新調されるのは決まって漁業の景気が良い時だったよう。各町の太鼓が現在のような大太鼓となると、祭礼も大太鼓祭りと称されるようになった。
新町の大太鼓の場合、1882(明治15)年に直径2尺(約61cm)だったものが大正時代には倍の4尺(約121cm)となり、1934(昭和9)年に6尺(約182cm)、1937(昭和12)年に7尺2寸(約218cm)、そして現在では7尺7寸(約233cm)まで大きくなっている。また、青年用の太鼓が大きくなると、それまで使用されていたものは子供用として使用される。
大太鼓を叩くバチは長さ1mほどもある、まるでバットのような太さのものが使われる。
かつて岐佐神社境内や稲荷山では上手な者しか叩くことを許されなかったようだが、現在ではあまり関係ないよう。

 

関連項目

イベント‐大太鼓祭り

 

参考

『静岡県の民俗芸能と伝統音楽』(静岡新聞社)
『静岡県の民俗芸能』(静岡県教育委員会)

 

 

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