教興寺きょうこうじ
郵便番号 | 430-0904 |
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所在地 | 浜松市中区中沢町42-1 |
Tel | 053-471-7452 |
URL | http://www.ens.ne.jp/~kyokoji/index.html |
時期 | 923(延長元)年(開創) |
教興寺とは
開創は923(延長元)年と言われ、天台宗に属して智徳院と号していた。
しかし、1283(弘安6)年に全国を遊行中であった時宗の開祖、一遍上人(いっぺんしょうにん)が浜松の地を訪れた際、教興阿闍梨(きょうこうあじゃり)に念仏の道を説かれ、時宗仏種山教興寺と改めた。
開創当時、馬込川畔の北勘馬並木に構えていたといわれているが、水害のため伝馬町へと移転した。その後、戦後の都市計画に伴い1964(昭和39)年6月に現在の地へと移っている。
伝馬町時代
伝馬町時代の教興寺は地域文化の温床となっていた。徳川家康が浜松在城当時には毎年正月20日に市中の文人を多く集め、連歌会や能の会などが行なわれていた。
また、元禄の頃には住職と歌人や国学者との間に交流関係があり、浜松諏訪神社の大祝(神主)であり国学者としても知られていた杉浦国頭(すぎうらくにあきら)の生母慈雲尼が他界したときには、教興寺住職の其阿(きあ)上人が追善興行を主催し、追悼の歌集の発行をしている。
賀茂真淵の養家である本陣梅谷家の菩薩寺でもあり、真淵とその妻の墓も最初は教興寺の墓地にあった。しかし、現在では斎場会館前に移されている。
本陣の近くにあったせいか、東海道を上下した朝鮮通信使や茶壺道中の一行の宿舎となり、城主が接待につとめたといわれている。
徳川家から受けた朱印地は56石であり、寺領は寺島町、馬込町方面にもあった。
稲津家の供養塔
本堂南側の墓苑の入り口にはこの寺で最も古い石塔が建っている。それは教興寺の大旦那(施主)であった稲津家の供養塔。建立当時は笠付の柱状碑であったが、1945(昭和20)年に戦災による火を受け、石質がもろくなり、角が欠損し円柱状になってしまっている。
伝えによるとこの供養塔を建てた稲津家が伝馬町の土地を寺域として寺に寄進したといわれている。
参考
『遠州の古寺』(静岡郷土出版社)
『浜松歴史散歩』(静岡新聞社)
『浜松の史跡』(浜松史跡調査顕彰会)
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