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西川熊三郎にしかわくまさぶろう

誕生地 奈良県生駒郡
生年 1888(明治21)年
没年 1959(昭和34)年
西川熊三郎とは

西川熊三郎は、浜松の鉄工王。浜松の経営不振会社を数え切れぬほど立ち直らせた。

 

生涯

1888(明治21)年9月11日奈良県生駒郡平群村で農業と炭焼き、炭の仲買商を営む父清蔵と母いその四男として誕生するが、家族はすぐに大阪へ移住。子供のころはわんぱく坊主。小学生の頃から鉄工所の様子を見るのが好きだった。1898(明治31)年11歳のとき小学校を自らやめ、鉄工所に弟子入り。いじめる兄弟子を見返したいと製図書きを独学で学んだ。
1907(明治40)年年年季奉公が明けてからは、自宅から寺本鉄工所へ通勤。1908(明治41)年12月30日もっと大きな工場で勉強したいと友人と仕事場や家族に内緒で名古屋へ向かい、さらに大阪の火砲製造所や、安倍川のほとりで船のスチームエンジンを造る鉄工所、起毛機を造る鉄工所、漁船用発動機を造る鉄工所など各所で働き技術を磨いた。


あるとき静岡県西部の舞阪町(現:西区舞阪町)から船の発動機械修理を依頼され現地へ出向いた際に、整備された鉄工所が無いことを知り、地元の人が金を出し合い熊三郎の鉄工所を設立。1913(大正2)年砂山町(現:中区砂山町)の新豊院の東にある休業した鉄工所場を借りて、西川鉄工所を開始。地元のみならず関東や東北まで出張販売を行った。資金を集めるために1914(大正3)年株式会社西川鉄工所を創設。寺島町(現:中区寺島町)の大地主、松本兵次郎が初代社長となり、自分は工場長として働いた。この年、27歳できょうと結婚。
1917(大正6)年に西川鉄工所を辞めて、西川兄弟鉄工所を松江町(現:中区松江町)に創設した。ちなみに、熊三郎がいなくなった西川鉄工所は、株式会社浜松鉄工所になり、その後重役陣が入れ替わったが数年後には閉鎖した。
 

その後、熊三郎はディーゼルエンジンを研究するため新潟の鉄工所で働いたり、知人から図面を見せてもらったりして勉強し、西川式、陸用ディーゼルエンジンを完成させ、製品は評判となった。1931(昭和6)年満州事変で軍需品の需要が高まり、西川鉄工所も多忙を極める。1937(昭和12)年支那事変の年、遠州鉄工機械工業組合を創設し、同時に全国組織の日本鉄工機械奉公組合に加入。松江町(現:中区松江町)から敷地の広い中島町(現:中区中島町)に移転し、株式会社西川鉄工所に改名。ディーゼルエンジンをやめて一切を重工業に転換した。

1939(昭和14)年陸軍から高射砲製造を依頼され、新たに敷地を買い入れ、遠州重工業株式会社を創設。この跡が後の住倉工業株式会社となる。

 

引佐郡奥山村(現:北区引佐町奥山)の方広寺住職の足利紫山が、宮本甚七とともに熊三郎のもとへ寄進を願いに来た際には、千円を奉納。これ以後紫山老師と親しくなり、後に方広寺境内に紫山の隠居所を建築して寄進し、その室は間雲荘と名づけられた。故郷の小学校をはじめ浜松市内の小学校や幼稚園、青年学校や女学校等にも寄付をし、舞阪町(現:西区舞阪町)の小学校には二宮尊徳の石像を寄付した。

1940(昭和15)年頃、浜松に機械工養成所を作ってほしいと県庁に申し入れ、建設費は地元の寄付によって浜松市向宿町(現:中区向宿)に事務所、工場、教室等を建設。1945(昭和20)年には浜松機械技術公共職業補導所となり、その後は機械技術学校となった。
同年工場の権利の半分を浅野財閥に売却。遠州重工業株式会社と西川鉄工所を合併し、浅野機械工業株式会社として、自らは副社長に就任。さらに残りの権利をすべて浅野財閥に譲り、重工業の社会から身を引いた。

 

売り渡し代金として手に入れた金は陸海軍、戦争犠牲者援護、浜松職業補導所、静岡県産業報国会、関係各町、同業者等に寄付。その後は、1941(昭和16)年広沢町(現:中区広沢)の新居に移り、方広寺の紫山老師に広沢荘と名づけられた。1944(昭和19)年には熊三郎の尽力で浜名用水門扉が完成。1945(昭和20)年長男が空襲で死亡するという悲しい経験をしながらも、被災者を自分の家に迎えて食べ物などを提供した。


終戦後、紫山老師の説得で広沢亀山合併町の町内会長に就任。1946(昭和21)年には松菱百貨店の監査役就任。その後、豊橋の丸物百貨店の監査役も務めた。
また、早くから三方原開発を考え、工場地帯とするために浜松鉄道奥山線幅員拡張と電化を意見していたが、なかなか採用されず、1946(昭和21)年熊三郎自らが浜松鉄道の社長に就任し、1947(昭和22)年遠州鉄道と合併し、その後、遠州鉄道の取締役として発展のために尽力した。
 

熊三郎の自宅には毎日のようにお客様が来るため、旅館許可を取得。1947(昭和22)年には皇太后陛下がご宿泊。その後は高松宮殿下も宿泊したという。
戦後は、焼け野原の浜松市の各種官公庁の復興に関して、真っ先に寄付を出したり集めたりした。その他、浜松商工会議所、三方原学園、舘山寺子供の家、浜松身体障害者授産所、浜松機械技術研究所、台湾引揚者本部、静岡県柑橘試験場西遠分場建設などにも寄付。
1948(昭和23)年静岡県教育委員選挙で当選し、学校復興、校舎増築、学校新築などに尽力。浜松工業専門学校復興後援会を結成し会長となり浄財を集め、静岡大学教育学部、浜松師範学校の附属中、小学校、磐田農林専門学校の大学移管や浜松北高等学校、浜松市立高等学校、浜松西高等学校の火災復興、西遠女子学園、興誠学園の復興や寄付金募集にも必ず熊三郎が係っていた。
 

1948(昭和23)年庄田鉄工株式会社の取締役となり、経営改善を実行。庄田鉄工はその後、木工機械メーカーとして全国に名を知られる企業になった。また方広寺山門建立のため浄財集めに奔走し、二年の歳月の末、1954(昭和29)年山門が完成。さらに一年かけて防火設備、黒門修理、山門奥の整理を行い、愛媛県から十六羅漢を譲り受けるなど多大に尽力した。方広寺山門の『護国』の掛額は、熊三郎が紫山老師の代理として高松宮殿下にお願いして直筆いただいたもの。1955(昭和30)年には山門落成祝いが行われた。
この他、奥山老人ホーム、浜松ライオンズクラブ設立にも尽力した熊三郎は、1959(昭和34)年6月1日心臓麻痺で逝去。葬儀は西来院で行われ、生前から準備していた方広寺境内の墓石に、熊三郎死後まもなく亡くなった紫山老師の墓と並んで眠っている。

 

人となり

158cmの小柄な身長

面白おかしく、聴衆に合わせた講演は評判だった
 

「我れ人に嫌われるとも、我れ人を嫌うな」
「その時、何か忘れた事はないか思い出せ(記憶力を養え)」
 

小鳥や金魚が大好きで、花ではさつきが好きで庭一面に埋め尽くした。
書画や骨董も好きで、鴨猟も上手。

遊びも豪快で夜の2時3時に帰ることもしばしばあったが、翌朝は午前5時には起きて仕事の監督をした。
寄付をするのも好きだが、寄付を奨めることも好きだし集めることも上手だった。

 

参考

『遠州偉人伝第三巻』
『遠州機械金属工業発展史』

『阿呆六十余年の足跡~西川熊三郎自伝』

 

 

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