中村藤吉なかむらとうきち
誕生地 | 現:浜松市中区田町 |
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生年 | 1854(安政元)年 |
没年 | 1923(大正12)年7月13日 |
中村藤吉とは
中村藤吉は、小間物商、事業家。報徳の教えを守り明治年間に巨万の財を築き、浜松市第一の富豪と言わしめた浜松市財界の偉人。
生涯
1854(安政元)年浜松宿田町(現:中区田町)の棒屋中村商店に誕生した六代目藤吉は、幼い頃は負けず嫌いのがんばり屋で凝り性。亡くなった兄のかわりに、幼い頃から跡継ぎとしての精神を教え込まれて育った。祖先はもともと農家だったが、1569(永禄12)年家康が浜松に城をかまえるとともに商売をスタート。天秤棒や背負籠などを販売していた。そこから「棒屋」の商名が生まれた。1785(天明5)年に分家したのが初代藤吉で、父にあたる四代目は報徳を信条とし秋葉神社信仰が深く、浜松宿田町の秋葉大鳥居を作った人物である。
六代目となる藤吉は、1873(明治6)年肴町間淵酒屋のはな子と結婚。1879(明治12)年には浜松町会議員に当選、1887(明治20)年奥山の富幕山に林道を作り、山を買って杉苗を植えた。1888(明治21)年からは10年かけて、現在の北区引佐町伊平、川名にも杉や松を植え、1889(明治22)年から1899(明治33)年にかけては、現在の北区都田にも松林を植えた。さらに、白脇海岸地区にある耕地の潮水流入問題には、砂浜に松の木を植えて砂堤防を完成させ、また自費で道路修築や新道開通、橋梁仮設を行った。
1892(明治25)年浜松委托販売会社を同士で設立。この年には、山葉寅楠の会社設立も応援している。翌年には1893(明治26)年商業会議所会員となり、1896(明治29)年浜松信用銀行の設立発起人となり、設立後は取締役に就任した。
この他、マッチや氷砂糖も製造し、現在の東区恒武町に、「遠陽市場」というを設立して市場発展につとめた。
1902(明治34)年株式会社三十五銀行が誕生した際には取締役就任。さらに1903(明治35)年浜松商工会議所会頭、1907(明治40)年大日本報徳社役員、1911(明治44)年浜松市会議員等を務め活躍した。1919(大正8)年には新川の改修費として1万円を寄付したほか、1923(大正12)年には、古希祝いとして自然石に「嗚呼忠勤弥助之碑」と彫って建碑し、浜松市に2万円を寄附し、中村藤吉言行録という冊子を配布した。
1923(大正12)年7月13日逝去。子孫は藤吉が1913(大正2)年に設立した中村社団を代々運営し続けている。
人となり
1m58cm、体重45キロの小男。
子供がなく、現:中区肴町の沢木藤八を養子にした。
「商売はモノを動かすだけで、富を作ることはないから、商人は反面ではそうして富を造る道をしなければならない」
「商売をする事は、どこかで人のためにならなくてはいけない。人を困らせて自分だけ儲けようなどとは、商業の道ではない」
不良田を買って良田にすることが大きな楽しみだった。
「唯楽」と号して絵を描いたり、歌をよんだりした。
「事足らば足るにまかせて事足らず、たらで足るこそ心安すけれ」が自作の歌
義太夫を演ずるのも趣味だった。
関連項目
参考
『遠州偉人伝第一巻』
『静岡県歴史人物事典』
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