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鈴木幸作すずきこうさく

誕生地 現:南区白羽町
生年 1855(安政2)年9月2日
没年 1930(昭和5)年7月27日
鈴木幸作とは

鈴木幸作は、苦労人から浜松有数の資産家となり、やまや王国を築きあげた人物。

 

生涯

1855(安政2)年9月2日浜名郡白脇村白羽(現:南区白羽町)に誕生。漁と農を営む父は弥助、母はかつ。祖父は浜松城主井上河内守から「馬込川取締役」に命ぜられた武士だった。父の弥助は1857(安政4)年自宅を改造して醤油工場をスタート。成子に店を移したものの店はうまくいかず借金は膨らむばかり。1872(明治5)年42歳の父から長男である幸作が商売と負債を引き継いだ。2歳年上の妻は浜松三大美人の一人といわれたという。子供はなく20歳年下の末弟を準養子としてかわいがった。

 

中村藤吉に教えられた商売の秘訣、薄利多売主義を貫き、次第に店が評判となる。廃物利用を考え、無駄を徹底的に排除。夜は習字や算盤の稽古に明け暮れる毎日だった。そんな中、三ケ日町(現:北区三ヶ日町)の大福寺などで作っている浜納豆に目をつけ、大福寺で製法を聞き製造を開始。1889(明治22)年政府は酒税、醤油税をかけることになり、多くの醤油工場が廃業する中、幸作の店は逆に廃業者から原料などを安く手に入れ助けられた。1890(明治23)年東京に火災保険株式会社が設立されたのを知り、すぐに火災保険に加入。その2年後、隣家からの火で成子町一帯が焼けたが保険のお陰で一週間後には新しい建物を建築できた。浜松で火災保険金を受け取った第一番目は鈴木幸作だったのである。


1893(明治26)年借金を完済し、翌年日清戦争勃発で醤油需要が急増。「会社の株主になる」「自分で食べる米を年貢米で入るようにしたい」「山の植林を持ちたい」の希望を持ち、休む間もなく働いた結果、1897(明治30)年を過ぎると、「醤油といえばやまや」と言われるようになる。
1900(明治33)年静岡県醤油同業組合が誕生し、幸作は西遠地区支部長になり、浜松所在会社の株を持ち、取締役に就任した。1907(明治40)年には日本楽器会社の監査役、その後、浜松委托会社社長に就任。龍山村(現:天竜区龍山)、水窪町(現:天竜区水窪町)の植林も実現し、1911(明治44)年市会議員選挙で一級選出議員に当選し3期連続浜松市会議員を務めた。
 

1924(大正13)年70歳の古希に、小吉に家督相続をして幸作を襲名させ、自身は隠居して五郎作を名乗り、古希の祝いとして浜松市へ金一万円を寄付した。以後浜松市(渡辺素夫市長)は毎年小学校児童に一万円の金利で鉛筆を配布したため、人々はこの鉛筆を「五郎作鉛筆」と呼んだ。
五郎作は、商売をする上での師とあおいだ中村藤吉父子に、感謝を込めて茶釜を贈ったが、この釜は戦時中に供出されてしまった。
1930(昭和5)年7月27日死去。成子町(現:中区成子町)法林寺で葬儀、浜名郡白脇村白羽(現:南区白羽町)法蔵寺に奉られた。

 

人となり

従業員以上に働く。
173cm 64㎏の丈夫な身体。
1896(明治29)年伝馬町(現:中区伝馬町)の劇場「子の日座」に大歌舞伎一座が来た際、花を出して鑑賞。このことを浜名郡白脇村白羽(現:南区白羽町)法蔵寺の住職に戒められて以来、反省して死ぬまで芝居を見なかったという。

浜松に最初に入った自転車3台の買主は、中村忠七、高林兵衛と幸作だったが、乗り始めに事故をおこして以来乗らなくなった。
「人にあった時には、話上手よりも聞き上手になる方がいい」と語った。
酒もタバコもあまり好まない。

 

参考

『遠州偉人伝第一巻』

 

 

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