戻る

特集

【投稿エッセイ】浜松祭りは、地域力の結晶!

取材ライター 水島加寿代

浜松祭り

 

浜松祭りは地域力の結晶!

 

 「祭り」というと、多くは神社仏閣の謂れに由来したものが多いが、浜松まつりに関してはそうではなく、地域に住む人たちの強い結束力とパワーの終結が凧揚げというイベントをますます大きくし、屋台御殿を生み、現在にまで至っていることを特筆したい。


 浜松祭りの起源は、「1558年~1569年頃浜松を治めていた引馬城主の元に長男が誕生したことを祝い、凧揚げをしたのがはじまり」という説が一般的。しかし以前、静岡大学での講義で伺った話によれば、「1922年に五社神社を浜松市の総社とし、祭礼日を秀忠の誕生日である5月4日に定めた。そして3日を前夜祭、5日を端午の節句と合わせて三連休にした。この時点で町の一大イベントとして位置づけるために、先のような伝説的謂れを作ったのではないか」ということだった。

 

  確実な史実としては「1789年4月11日に浜松に120センチ四方の凧を買いにいかせた」という記述が残されているため、1700年代に江戸町民の生活が落ち着いた頃には、全国的に凧揚げが行われていたのだろうと想像できる。特に浜松を中心とした遠州地域では、木綿生産などによって急スピードに経済力が高まっていた。意気揚々とした人々は、初子祝い等の際にはグループを組んで盛大に凧を揚げるようになったのだろう。グループが増えれば凧も絡み合う。となれば、自然に糸きり合戦が生まれ、その楽しさに熱狂した。

 

 「旗を立て、ラッパを鳴らし、揃いの手拭の集団が陣屋を構え・・・」と伝えるのは、1897(明治30)年の新聞記事。賑わいの中、各町は次第に競争意識を高め自治区の結束力を強めていったことが伺える。そんな集団が各地に増え、各々が凧揚げ会場へ行き来する際には、互いの個性と華やかさを競い合うようになった。これがきらびやかな御殿屋台の起こりに結びついたわけだ。

御殿屋台が通りやすいように、道も整備され、祭りは浜松市の一大イベントとして揺るぎ無いものになっていった。さすがに戦争中は一時中断したものの、1947(昭和22)年には早くも復活。

その後、1950(昭和25)年には正式に「浜松まつり」と命名され、現在の参加町数170を越す大祭に成長してきた。

 

   こうしてざっと歴史を振り返ってみると、「なあんだ、浜松人の勝気で、負けず嫌いで、見栄っ張り魂が祭り心に拍車をかけたんだ」ともいえるが、同時に、地域(今でいう町内区)への強い愛情、そこに住む人と人との深い結びつきが根底にしっかりあったからこそ、現在まで熱い想いで受け継がれきたのだと思う。

  初子の誕生を喜ぶ家族、それを祝福する地域の仲間たち。組長を頭に心をひとつにし、長老は経験と技術を若者に伝え、若者は長老を敬い汗を流す。老いも若きもルールを基本にして統率を取り合い、仲間意識を高め、親交を深め合う。子供たちも自然に付き合い方を学んでいく。母親達だって大人しくしてはいられない。子供会に参加し御殿屋台を引きながら、わが子の成長を喜んだり、初の振る舞い料理に腕を振るったりと大忙し。浜松祭りの間は、あちらこちらでこうした人間ドラマを見たり感じたりする事が出来る。その男たち女たちは、誰もが本当に眩しく美しく輝いているのだ。
 

  老若男女が暗黙の一体感に浸り、深い絆で結ばれた、いいようのない充実感。これはやはり祭りを観てこそ、そして参加してこそ味わえるものだと実感している。この興奮、この満足感が忘れられず、祭りが終った直後には、すぐまた来年の祭りを待ち望む自分がいるのである。

(2010年10月投稿)