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袴田喜長はかまたよしなが

誕生地 現:浜松市天竜区二俣町
生年 1716(享保元)年
没年 1791(寛政3)年10月18日
袴田喜長とは

二俣川氾濫による水害をなくすため、私財を投じて二俣川改修に取り組んだ。

 

生涯

1716(享保元)年、豊田郡二俣村(現:天竜区二俣)の庄屋袴田家長男として生まれる。幼名を甚蔵(じんぞう)、大人になってから甚右衛門を襲名し、二俣村名主を務めた。
1754(宝暦4)年、二俣川改修工事を計画し、村民19人と共に鳥羽山を掘り割るための測量を行う。
1766(明和3)年より私財を投じて工事に取り掛かるが、許可を得ていなかったため、途中で代官所より工事中止を申し渡される。
1769(明和6)年に許可が下りて工事は再開されるが、難工事のため計画を隧道に変更。
1774(安永3)年、隧道開通。しかし、まだ不完全なものであったため、工事は続けられた。
1782(天明2)年に喜長は隠居。1791(寛政3)年ついに工事は完了したが、その年の10月に75歳で他界している。

※隧道(ずいどう)/トンネルのこと

 

二俣川改修工事

二俣村は大雨によって天竜川が増水するたびに、村中を流れる二俣川が逆流し、大変な被害を受けていた。
そこで、1754(宝暦4)年に二俣川改修のための会合が開かれ、二俣川がぶつかる鳥羽山を掘り割り、川の水を天竜川へと真っ直ぐに流す計画が立てられた。他にも村に入る手前で二俣川を天竜川へつなげる案が出されたが、村の手前の地点では天竜川より二俣川のほうが低い場所に位置しており、天竜川へ水を流す事ができないため、鳥羽山を掘り割ることとなった。
早速、袴田喜長は村民19人と共に鳥羽山から天竜川への勾配を測るが、それ以降、工事は進まず、具体的な対策もとられなかった。その後、1757(宝暦7)年に起こった大洪水で村中の家が3日間も浸水し、さらに1765(明和2)年には道路や堤防が崩れ、16戸の家が流されるという大きな被害を受けた。そのため、再び鳥羽山を掘り割る工事の話が持ち上がり、翌1765(明和3)年より工事がはじめられた。しかし、許可を得ずに工事を進めていたため、中泉代官所(現:磐田市中和泉)より工事中止を申し渡された。
1769(明和6)年にようやく許可が下り、工事は再開されるが、掘り割る作業がなかなか進まなかったため、隧道に設計を変えて取り組み、1774(安永3)年についに隧道が開通した。その後も隧道の整備は続けられ、1791(寛政3)年に全ての工事が完了。工事には延23,263人が携わり、袴田喜長は私財を投じて二俣川の改修工事に取り組んだ。

1795(寛政7)年の雷雨によって隧道は大崩壊し、現在のような掘割となった。
1891(明治24)年に二俣諏訪神社境内に鳥羽山開削記念碑が、1984(昭和59)年には袴田喜長の功績をたたえ、二俣川掘割現地の二俣町南口に頌徳碑が建てられた。

 

参考

『郷土の発展につくした人々』(静岡県教育委員会)
『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社

 

 

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