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秋葉街道あきはかいどう

秋葉街道とは

火防(ひぶせ)の神として知られる秋葉神社へ参詣するために、神社のある秋葉山へと参詣者が向かう道。そのルートは掛川宿や浜松宿を出発点とするものや、信州や三河から向かう道など多くのルートがあり、江戸時代以降には庶民の厚い信仰を集め、多くの参詣者で賑わった。

 

秋葉街道のルート

秋葉山へ向かう道はいくつもあるが、主なルートとしては以下の4つがあげられる。

(1)掛川宿から
関東地方からの参詣者は主に掛川宿を起点として森・一ノ瀬・小奈良安・犬居・坂下を通り、秋葉山に向かうことが多かった。この道は秋葉信仰の道となる以前から「塩の道」と呼ばれ、遠州と信州の物資流通・文化交流の道としての役割を担っていた。

(2)浜松宿から
浜松宿を出発点とする道は、貴布祢(きぶね)へと北上し、鹿島で天竜川を渡って二俣・光明山・和田之谷・犬居を経て秋葉山へと向かうことが多く、中区田町にはかつて青銅製の大鳥居(一の鳥居)があった。しかし、第二次世界大戦中に金属供出の対象となり、解体・撤去されている。1822(文政5)年に建てられた高さ7.3メートルにも及ぶ御影石(みかげいし)づくりの二の鳥居は現在でも浜北区小松にあり、秋葉街道に残る最大の石造物。

(3)御油宿から
三河からは御油(ごゆ)宿を出発し、豊川・新城(しんしろ)を通って鳳来寺を参詣、そして、西川(さいかわ)から戸倉へは渡し舟を利用して秋葉山へと向かう。

(4)信州から
信州方面からは飯田・八幡・越久保・和田へと進み、青崩(あおくずれ)峠を越えて水窪(みさくぼ)・西渡(にしど)と南下し、下平山から秋葉山へと向かった。

 

秋葉信仰

鎌倉時代から続く犬居城主天野氏は秋葉山を特別庇護下においており、かなり早くから周辺地域で秋葉信仰が普及していたと考えられる。
秋葉山は中世には山岳信仰の聖地であり、修験(しゅげん)の道場として修行者が入山しており、その後、両部神道の影響もあり、秋葉山の神は「秋葉大権現」と称され、秋葉修験者によって霊験が各地に広められていった。
江戸時代には火防の神としての秋葉信仰は全国的な盛り上がりをみせており、各地に秋葉講が結成され、秋葉山へと向かう秋葉街道は多くの参詣者で賑わった。秋葉信仰がこれほどの賑わいを見せたのには、秋葉祭が熱狂していったため禁止令が出され、それによって秋葉山が全国に知られるようになったことが考えられる。

※秋葉講(あきはこう)/江戸時代の庶民にとって秋葉山へ参詣するには多額の旅費がかかり、経済的負担が大きかった。そのため、秋葉講という互助組織を結成し、毎年交代で選出された講員が積み立てた旅費を使い、組織の代表として秋葉山へ参詣していた。
※秋葉祭(あきはのまつり)/秋葉山の神輿を担いだ信者が、鉦や太鼓を鳴らしながら近隣の村々から東海道沿いに京や江戸を目指す。

 

常夜灯

秋葉街道沿いにはその道標として数多くの常夜灯が建てられた。また、常夜灯は街道沿いのみならず、火防の神への信仰や地域の安全を願って建てられたものもあり、現在でも数多くの常夜灯が残されている。
風雨から灯を守るため、彫刻を施した屋根つきの覆い「鞘堂(さやどう)」に納められた常夜灯は「龍灯」とよばれている。

 

関連項目

資料アラカルト‐秋葉街道

 

参考

『県別全国古街道事典 東日本編』(東京堂出版)
『ももとせ 浜松市制百周年記念誌』(浜松市)
『天竜歴史街道』(天竜区役所区振興課)
『静岡県の歴史散歩』(山川出版社)
『週刊神社紀行 秋葉神社』(学習研究社)

 

 

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